• [0]
  • Tachibana-Ya

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2010年 5月16日(日)23時17分3秒
 
十五代目市村羽左衛門に関連するスレッドです。

記録用なので書き込みは総合掲示板にお願いします。
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● 話の順番がありますので上記の「1-100件」を押して下から上がるのが宜しいかと思います ●
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sage

  • [91]
  • 梅と橘 その拾九

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2014年 9月 7日(日)21時41分53秒
  • 編集済
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【 梅幸の思ひ出 】その弐 「中央公論 昭和9年12月号」

大體梅幸(てらじま)の病気の起りは昭和三年の正月に、帝劇で『茨木』を勤めてゐた時、舞臺での演技中に後シテの件で倒れて以来、動脈硬化症が募つてゐたやうでしたが、其後同六年の十一月にも倒れた事があつて、今度で三度目の脳溢血です。

梅幸は病氣の初發以来、さしもに好きであつた酒も、すつかりやめて了ひ空氣のいゝ鎌倉山へ別荘を建てゝ、居乍らに日光浴の出来る、硝子張の部屋なども作つて、 芝居へ出ない間は多く此方へ住んで、自分でも只管體を大事にしてゐました。

此土地が目の下に繪之島を見晴らす絶景の高處なんで、夏の涼しさは大したもんですから、私も沼津に在つた別荘を爰へ移して、出来るだけ梅幸と往き来をかかさないやうにしてゐたのも、お互に何だか近くにゐたいやうな心持たつたんです。

梅幸はそんな養生法が利き目があったのかして、一時は健康も大分回復して来ましたが、大病以来とかく臺詞が縺れ勝でしたのを、本人もぢれツたかつたんでせう、家にゐても、芝居の部屋にゐても、始終口の脇へ電氣を掛けてゐました。

又口に故障のあつた事は、煙草を吸ふのにも一々右の口尻を手で押へて喫つてゐました。

煙草はよくよく好きだつたやうで、それも卷煙草よりは刻みのほうでしたけれど、殆んど絶えず離した事がないんで、ツイ此間も私が、『寺島、そんなに煙草を喫 み続けてゐるよりは、一層煙草を止めて、酒を少しやつた方が楽になるだらう』と云ふと、『イヤ、酒はもう七年も飲まないから飲みたくない、此頃では医者も 少しは飲んだ方がよからうと云つてくれてゐるので、此間久し振で猪口を口まで持つて行つて見たが、何だか怖くつて飲む気になれない、しかし此上煙草まで止 めろと云ふのは殺生だよ、それでは生てゐるんだか何だかわかりやあしない』と冗談を言つてゐました。

十月の歌舞伎座では、『一世一代』の肩書附で『お夏狂乱』を踊つて、どうかと思ってゐた舞臺も非常に成績がよく、頗る好評を博したのを喜こんでゐましたけれ ど、部屋には始終床を敷かせて疲れを休めてゐた方が多く、十一月の興行は役が軽かったにも拘らず矢っ張横になつて、私が時々遊びに行つて見ると、うとうと と眠つてゐたり、又は例の電氣を口元へかけてゐましたが、其ころから幾分か悪かつたのではなからうかと思はれます。

今度の發病の四日の朝、梅幸は赤坂永田町の自宅で、手水を遣ひに立つた時、フラフラとしたんださうで、姉さん(梅幸夫人ふじ子の事)が、『あなた、気分が悪 ければ芝居の方へ斷りませうか』と云つた所、「ナニ大丈夫だよ」と云つたんで、強いて逆らひもせずに、けれども心配になる所から、おふじさんが付添つて楽 屋入をしたんだとの事でした。

私も六代目もそんな話を聞かされたんで、 「それでは今日は臺詞も必要だけの事にして、起居(たちゐ)もしないやうに樂にしたらいいだらう」とは云つたんですけれども、梅幸は「大した事ではないか ら安心してゐて下さい」との話で、本人の氣の済むやうにした方がよからうと、ツイ其儘に成つて了まつたんです。

歌舞伎座の方では、狂言の盛りが多い爲に、打出しの時間が遅くなるので、其筋がやかましく、丁度此4日目から「ひらがな盛衰記」の先陣問答の前半の一場を預 る事になつてゐたんで、梅幸もいつもよりは早く、延壽の役の拵へに掛つた所、此時分から氣分がすぐれなかつたものと見えて、白粉を塗込む勇氣もなく、素顔 へ眉毛だけを引て出たと云ふ風でした。

それも跡で氣が付いて見ると、チグハグに引てあつたのは、よくよく氣力がなかつたもんだと思はれます。

けれども衣装を付けて道具裏へ來て出を待つてゐる間には、付添つてゐた狂言作者の竹柴蟹助に向つて、いろいろな事を聞たり、冗談口も利いてゐたさうで、周圍 (まわり)にゐた者も格別氣に掛けず、舞臺へ出てからも始めのうちは普通に臺詞を言つたのが、手紙を操り抜いて見る仕科の時に、鬘の毛が前へ下つたのを、 梅幸が自分で直さうとしても手の動かない様子なんで、後見の蟹助が手を掛けて直すと、梅幸は其儘蟹助の體へ倚り掛つた。

蟹助が身を引くと、又追掛けるやうに倚り掛られる、「變だな」と思つて其儘にこらえてゐると、幸四郎(こうらいや、以下同)の平次景高の役が立ち上がつて、 母延壽の傍へ手紙を取りに行く、延壽が遮つて「此状は母への名宛」までは分つてゐましたが、跡は只聲を出しているだけの事で、語呂の調子が亂れて呂律が狂 つて来ましたから驚きましたね私が「幕々」と云ふと、梅幸は「幕を締めてはいけない」との心持ちでせう、頰と首を振るやうな様子をしたのを、それには構は ず又六代目が「幕まく」と聲を掛けて、狂言方にも大道具に合図をして、漸く幕を締めて貰ふと、梅幸はすぐにヘタヘタと倒れて了ひました。

皆んなが傍へ駈寄つて、六代目が「兄さん舌を出して御覧なさい」と云ふと、僅に舌は出したんですが、それを引込ませる力もないやうでした。

幸四郎は梅幸が、帝劇で初發の脳溢血を起こした時にも、「茨木」の脇役の渡邊綱で、一緒に舞臺に出てゐた人ですから、馴れてゐると云ふのもおかしな言葉ですけれど、ともかくも經驗があるだけに、すぐ大道具に畳を持つて來させて、其上へ病人を乗せる事にしたんです。

しかし梅幸は自分で歩いて行くと云ふやうな心持らしく、畳へ移るのを拒んだんですが、一同で担ぎ上げて部屋へ運びました。
折柄見物に来てゐられた醫師黒河内博士が診察をして下すつたのと、やがて小林主治醫と平井博士も見えて、應急の手當を加へ、妻君のおふじさんが付切で、絶對安静の看護をしました。

舞臺の方はどうしやうと云ふ相談になつて、六代目は即座に延壽の代役を引受けて、すぐ幕を明けやうとも云つたんでしたが、もう源太の先陣問答も済んだ跡でしたから、一層の事「小袖物狂ひ」に移つた方がよからうと極めて、私から會社の井上常務に依頼して、右の趣の口上を述べて貰つたんです。

幸ひに御見物の御同情の下に、障りなく順を追つて、二番目「一本刀土俵入」の梅幸の持役は、多賀之氶が代わつて勤める事に決めました。

跡での話に梅幸はいつも古い狂言の時には、後ろを附けさせるのが大嫌ひなのに、今度に限つて狂言作者の蟹助を呼んで「どうも臺詞が覺えられないから、當分の間附けておくれ」と言つたさうで、それでも蟹助は遠慮をして大道具の襖越しに附けてゐたのを、梅幸の方から「傍へ来て附けておくれ」と云つたのが、飛んだ役に立つて、いよいよ舞臺で倒れる時の體を、此蟹助が抱へて保たせてゐたのは、本人も何か心細い豫感があつたのではなからうかとも察しられます。

又梅幸が倒れた時に、六代目がすぐ鬘を抜かせて見ると、俗に目釣りと云ふ羽二重が、本来ならば堅く締めてある筈なのが、殆んど締めてない程にゆるめてあつたのも  に此日は體の悪いのを知り乍ら、責任観念の上から押して舞臺を勤めてゐた覺悟の程が思はれて、一倍涙がこぼれてなりません。

梅幸の體は其晩は歌舞伎座の部屋で、お醫者と家族と一門の者が付添つて見護りました。 以上

(写真は栄三郎・家橘時代の楽屋での一枚。後ろに立っているのは当時丑之助の六代目。)


  • [90]
  • 梅と橘 その拾八

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2014年 5月 6日(火)10時33分50秒
  • 編集済
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【 梅幸の思ひ出 】その壱 「中央公論 昭和9年12月号」


梅幸(てらじま、以後同)の兄貴に亡くなられたのは實に残念です。本當に惜しい事をしました。

私にして見れば、舞台の上の連れ添ふ女房に先立たれて了った訣なんですからね、全くの所これから先が困ります。

ま、情婦(いろ)を拵えれはいゝだろうと云ふんですか。

さアそれがね、いままでその情婦にもなつてくれた人ですし、又姉にもなつてくれた人なんですから言はば私は女房にも情婦にも姉にも、皆んな一時に死なれて了ったのと同じ事で、またすぐに替りを見付けると云つても、情婦はとにかくとして、今更そうそう若い女房も持てませんし、にょうぼうにするには釣合ひも考へなければなりません。

それに就て五代目の菊五郎(おぢさん)もよく言つた話ですが、女形は常に自分の亭主になる役者、乃至は情夫(いろおとこ)になる役者と交際をして、日頃からあいて方のきごころをよく飲込んでおく事が、一つの心掛けだと言い聞かされておりました。

梅幸と私との場合が不知不識(しらずしらず)それを実行していたんですね。

つまり二人は幼馴染の仲なんですから、これがおとことおんなであつたならば、飯事をしてあそんでゐた時代に、土蔵(くら)の白壁や横丁の黒壁へ、相合傘に「いろいろ」のいたづら書きをられて浮名を歌はれてゐた間柄になる訳で、お互すつかり氣心を知り合つていればこそ、橆臺へ出てもピタリと呼吸(いき)が合ふんです。

此事は梅幸もよく心得ていて、たまたま稽古の荒い時などでも、「ねえ市村、心配をする事はないよ、君と僕と二人で出ているのならば、舞臺の上でどうにでも合わせる事が出来るよ」と云つてくれた位でした。

以心傳心とでも言ひませうか、こつちの持って行きやうに依つて、向こうで受けてくれるんですし、又向ふの出やうに依つて、こつちでうけていくのが、相方ともに何のみもなく、ちつとも苦しまないで、自然にキチンキチンとあつて行くと云ふのは、昨日や今日貰つた女房では、所詮出来る仕事ではありません。

世間で仲のいい人の事を、兄弟のようだとはよく云ふ言葉ですが、實際血を分けた兄弟にして見た所たまには意見の合はない時もありませう。

それが梅幸と私とは此長年の交際の間に、いい争ひ一つした事がなく、至つて仲よくして来ました。

しかしそんなにまで気が合つても、二人の性質は全然反對なんだからおかしいぢやありませんか。

梅幸は何處までも落付いたおとなしい人,、私は陽気な上に派手な事の好きな人間、一方が山を好めば私は海を好み、一方が静かな事が好きなら、私は賑やかな事が好きと云つたやうに、すべてに裏表の相違でありながら、然も兄弟以上、影の形に従ふやうに仲のよかつたのは事實です。

それも其筈かも知れませんね、梅幸が名古屋から菊五郎(ごだいめ、以下同)の所へ養子に来て後、私は十九の年に父に死なれてから、矢つ張暫く菊五郎の所へ預けられてゐました。

この時分には梅幸はまだ栄之助、私は竹松を名乘つてゐて、二人は新富町の音羽屋の家の二階の部屋へ、毎晩枕を並べて寝たもんで、或る時には一つの蒲団へくるまつて、夜通し話し明かした事もあつたんですもの。
何しろお互ひに遊び盛りの年頃でしたが、梅幸は養父の菊五郎がやかましいのを怖がつて、其時分から私よりはずつとおとなしくしてゐました。

殊に菊五郎が稽古事や舞臺にきびしかつたのは、一度手に掛つた者は、誰でも知つてゐる事ですけれど、其頃の一例を挙げて見れば、話は少し前へ戻りますけれど、久松町の千歳座(今の明治座)の五月興行で、黙阿弥の「恋闇鵜飼燎(こいのやみうかいのかがりび」の出た時、菊五郎は藝者小松と、鵜飼甲作の二役を勤めていましたが、その藝者のこまつのやくが、笹子峠の場で狼に喰われるところがあつて、その狼の役を言い付けられたのが、梅幸と私と其他栄次郎小傳次などでした。

此時私がたしか十五歳だと覚えてゐますからさうすれば梅幸は十八歳です。

所が根がおとなしい人の事で、「おんのろ」と云ふ渾名さえ付いてゐた位、物腰格好のやさしい若旦那が、人を喰殺す狼の役にでたもんで、萬事がゆつたりと元氣がなくつてうまく行きませんや、それを菊五郎が見て、カンカンに怒つて、「榮や、お前の狼は使い物にならねぇからやめて了ひな、あんなグヅグヅした事で人が喰い殺されると思つてゐるのか、分からねぇにも、程があるもんだ、サアもう用はねえからさつさと家へ歸つて了ぇ」とまあ斯んな意味の事を、悪気ではなく、いつもの藝熱心から口穢く罵つたもんなんですね、然も梅幸の狼の役は、其場で弟子の梅助に振り替えられて了ひました。

梅幸は仕方なくいえへは歸つたものの、子供心にも口惜しくつてたまらなかつたさうで、涙乍ら此事を母親に話た所が、此晩母親から菊五郎に侘事をして、翌日改めて狼の役に出た時には、梅幸は全く菊五郎の咽喉笛に喰ひ付いてやる氣だつたと云つてゐましたが、誰しも斯う云ふ經驗はある事で、爲めを思つて言つてくれる小言なんですけれど、言はれてゐる時には恨めしくなつて来て、そんな無理を言ふ奴は、叩殺してこつちも死んでやらうと云ふ気にもなるんです。

梅幸も其心持で喰つて掛る、小松の役の菊五郎が逃げて迫るのを、「おのれ逃げようとて逃がすものか」の勢でひで飛で掛って行く、全く真剣だつたんですね。

この意気がすつかり菊五郎の気に入って、楽屋へ入っても大層機嫌がよく、「今日はうまかつたぞ、毎日あの意気でやるんだ」、と褒められた時には、前の日の口惜しさも忘れて了つて、梅幸は嬉し泣きに泣いてゐました。

これは其後の私の話なんですけれども、矢張黙阿彌の「柳巷春薊色縫」の狂言で、菊五郎の清心に私が初役で寺小姓の求女を勤めたんです。

百本杭の場で清心に金財布を取られて立廻りになる所で、菊五郎は毎日舞臺の上で、「まずいまずい」と云ふばかりでなく、「もつと力を入れて斬掛けて来るんだ」とか、「アゝその臺詞廻しはなつちやいねえ」、「えゝ何てえ死にざまをしやアがるんだ」とか事々に駄目を出すんです。

私の方では力一杯やつてゐるつもりなんですが、大體ができてゐないんだから仕方ありません。

それにあんまり一々に小言を言はれるんで、おぢけが付いてゐる所へ、或日の事教はつた通りに百本杭の何本目と云ふ所へ来て倒れやうとすると、其處に生憎と私の捨てた刀が落ちてゐたもんです。

それにしても外の場所へ死倒れたら、又跡で叱られると思つたので、痛いのを我慢して、後生大事に刀の上へ倒れてゐましたね、すると菊五郎が大怒りで、「馬鹿め、刀の上へ倒れる奴があるか、これから、おれが其刀を持つて芝居をするんだ」と言はれて、幸ひ見物は清心の藝ばかりを見てゐる所なので、私がそつと転がつてかたなのうえをはなれやうとすると、「大馬鹿野郎、死んだ者が動く奴があるか」と噛んではき出すやうに言ふんです。

見物に聞こえてもきまりが悪し、全くいやになつて了つて、一層役者を止めて伯父甥の縁を切らうかと思つたり、又菊五郎を撲り付けて逃げやうかと思つたりしましたが、イヤイヤ爰が修行だと考へ直して、「一體どうすれば伯父さんの氣に入るんです」と聞きに行つて見ると、一々事細かに教へてくれましたがそれも其筈で此狂言の書卸の時に、めいじん小團次さんが清心を勤めて、菊五郎がまだ羽左衛門を名乗つてゐた頃、此求女の役で散々に苦労をしたもんださうで、つまり其通りを私に言つて聞かせた訳なんで、なかにも清心が財布を持つて逃げやうとすると、其紐が求女の咽喉へ掛つてゐて締殺される仕科の所、求女をする役者が、左の手の拇指を咽喉に掛つてゐる紐の間へ入れる、さうして右の手と同様に、外の指先きだけを動かしてモガクと、見物の目に苦しむ様子が歴然(はっきり)と、一方に清心が財布を強く引張つても、求女の咽喉は拇指一本の反抗の爲に、強く締められないで済むと云ふ工風(くふう)などは何でもない事のやうですけれど、些細な點まで實によくかんがえてあるもんだと感心しましたね。

梅幸(てらじま)も私もそんな風に育てられて来たんで、梅幸と私とは本當に苦楽を共にした仲だけに、いろいろの思い出も多い訳で、今此無二の親友に逝かれて了つた事は、どうしても泣かずにはゐられません。

それに就いて残念な事は、「與話情浮名横櫛」の源氏店を、梅幸と私のコンビでお富と與三郎の出逢ひを、トーキーに撮つて置きたかつたんで、大谷社長にも下話はしてありましたが、「撮影をする以上は完全な物にしたいから、もう少し待つてくれ」と云はれて、とうとう間に合はず了ひになりました。

又此先きは「直侍」を出すにしても、差詰三千歳がゐないのですし、考へて見ると心細くもなりますよ。(続く)


写真は明治36年歌舞伎座にて川尻清潭撮影

  • [89]
  • 梅と橘 その拾七

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2014年 5月 5日(月)23時41分29秒
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歌舞伎座で観るには「女学校の授業料の一ヶ月分かかる」と親から聞かされた人もあって、やはり高いものと感じたそうですから、帝劇の興行スタイルはある意味「観劇の民主化」を促したと言えるかもしれません。

必然的に一部の見物たちには觀劇の仕方を変化せざるを得ない対応を求めるもので、それ以前の芝居の雰囲気が懐かしくて堪らない、と言った思いを久保田万太郎も持っていたようです。
升席での觀劇はその後とは違った情緒感があって、当時の人たちは帝劇のかたちと両方見ることができたとはいえ、それぞれのスタイルの違いに困惑していた状況も読み取れます。

帝劇の開場の翌年に明治大帝の崩御、そして第一次世界大戦、それに続く大正期の好景気が人々の生活の裾野を広げ、今に繋がるとされる大正文化を形作ったと同時に、手軽さを提供しことで多くのものがその姿と雰囲気を変えていく…
世界との繋がりは進み、時代は変化の度合いをますます加速して世の雰囲気も変っていく中で、「羽左衛門の舞台は江戸の雰囲気に浸れる」、あたかもタイムスリップしたかのような気分になったのだそうです。

「『羽左衛門と梅幸の芝居になると小屋の売店の土産物がよく売れる…』と、こんなことを言われた時代があった。
実際、この二人の『廓文章』でも『源氏店』でも見ていると、何となくすっかり芝居見物の気分にひたって、帰りには芝居の土産物の一つでも買いたくなるのが通例なので、これが私一人ばかりでなく、見物の皆んなが皆、こんな気分になるので、土産物がたくさん売れるという現象を呈したのであろう。
誰もが言うことではあるが、十五世羽左衛門の舞台には、それ程まで明るいものがあり、華やかさがあったものなのである」(三井高篤)

二人の舞台で見物は「芝居らしさ」に浸ることができたのでした。
「幕間からわくわくする感じ」「明るく華やいで胸が開ける気分」、彼らの舞台は只々芝居の世界に溶け込める…それが忘れられなくなり、また観たくなって劇場に足を運のが喜びだった…

このように感じていた人も多かったことは事実で、幾人からも聞かされたものです。
芝居ならではの楽しい雰囲気を堪能できたのでしょうけれど、見ることが出来た人が何とも羨ましい。
「いい芝居を観ると、何の脈絡もない時にその名場面が稲妻のように脳裏に蘇ってきて、困ることが何度もあった」

彼が出てくるだけで舞台が江戸の雰囲気で一杯になるという「特殊性」は、芝居にとって、特に世話物には大きな武器になっていたようです。
彼が自身の芸について「これは術だよ」と語ったことと無関係ではなく、幸田文が露伴に薦められて「源氏店」を観た時、周りの見物が舞台の羽左衛門と同じく蕩ける表情をしながら魅入っていたように、まさに術中に嵌まったごとく芝居の世界に入り込むことができたのでした。

彼の舞台の雰囲気を言葉に表すとどのようなものだったのか…
「満開の桜の下で上を見上げてごらんなさい。その時の気分が羽左衛門の舞台の味わいだよ」

こう語った方がいて、実際に満開の夜桜の下で見上げると、何とも気分が明るく楽しくなり、いい心持ちになります。
残されたSP盤にはそれらの雰囲気が間違いなく刻み込まれており、特に助六」のつらねの部分、「桜に匂う仲ノ町…」のくだりでは本当に満開の桜が脳裏に浮かんだものです。
聴けば当時の見物たちが愛し求めた感覚をトレースし、溜飲が下がる思いを味わうことができるでしょう。

台詞無くして江戸前の情緒を感じることは難しい…
「羽左衛門のような役者はもう出ないから」と言われたのは、本職が憧れるほど洗練された江戸弁と、他には求められない声質・口跡にもその秘密の一端があったのだと思います。

ですから羽左と梅幸が離れ離れになったことは、贔屓とする多くの芝居好きには痛手となりました。
二人の舞台で味わえた江戸情緒は見物たちに一種特別の雰囲気…その当時そのものではないかという空気感…それこそ奇跡のように時代を超えた余韻があったということです。

ただそれらを語った明治の人たちも江戸時代を知るはずもないので、実際の「江戸」とは違った羽左衛門独特の明るくそして新しい空気ではあったのでしょうが、望ましい「それらしさ」と言うのか…あるいは舞台における時空の超越感覚とでも言うべきなのか…芝居において最も大切な部分に夢を見させてくれる何かがあったのだと思います。

大正2年に歌舞伎座が松竹の手に移って後、帝劇との間で役者の融通協約が結ばれると、贔屓の願いに応えるように大正5年3月横濱座で久々に二人の共演が実現すると、大勢が横浜へ詰めかけました。

そして同年9月29日からの歌舞伎座10月興行で梅幸・松助が六年振りに出演し羽左衛門と共演、明治39年の助六以来の大当たりで、打日25日間のうち23日間の大入りだったため、楽日には楽屋では大入り祝いも兼ねた稲荷祭が盛大に行われています。

演目は「沓手鳥孤城落月」「茨木」「扇的西海硯」「与話情浮名横櫛」。この時の松助の蝙蝠安は「國寶」と書かれました。

「ファンお目当ての羽左衛門が帝劇に出演するのは、一九一七年(大正六年)の六月公演だった。これも極め付きの『江戸育お祭佐七』を梅幸の小糸でやり、二十三日間空席なし、完全な売り切れという盛況が続いた。以来、羽左衛門は毎年六月、帝劇への客演出演を吉例とし、梅幸とのコンビで数多くの名舞台を残すことになる。その都度、大入り満員で、帝劇にとっても貴重なドル箱興行だった。」(「帝劇劇場開幕」)

歌右衛門は大正5年11月に交流公演第二弾として「廿四考」八重垣姫、「細川忠興の妻」お玉の方、「鞘当」留女を、羽左衛門は上記のとおり第三弾の大正6年6月興行で帝劇に初出勤。

羽左衛門と歌右衛門はそれに先立つ大正2年10月26日から三日間催された「男爵大倉鶴彦翁祝賀会」において、幸田露伴作・右田寅彦脚色「船上山」と「元禄花見踊」で専属俳優一座と共演しています。
この「船上山」は大正4年11月初演「名和長年」の第五幕にあたる戯曲のようです。

男爵大倉鶴彦翁とは大倉喜八郎のこと。彼は狂歌創作では「大倉鶴彦」を名乗っていました。
田村が歌舞伎座から手を引き、大正2年8月8日から松竹の時代となったので、帝劇創立メンバーだった大倉喜八郎の喜寿の祝舞台は、歌舞伎座の二人の帝劇初顔見世に打ってつけのタイミングだったのでしょう。

羽左は梅幸が昭和9年に 亡くなるまで、舞台での蜜月を過ごし、多くの芝居好きを喜ばせたのでした。
梅幸が亡くなった時は、多方面から惜しまれ哀悼の文が世間にあふれましたが、直後に羽左衛門が記者に語った話が「梅幸の思ひ出」として中央公論に掲載されました。

梅幸の死後直後でものにこだわらない羽左でもショックは大変なものだったようで、それにはかけがえのない相方、子供の頃から兄弟として、そして他家から養子に入ったもの同士であり無二の親友でもあった従兄梅幸に対する想いが詰まっています。

他には収録されていないようなので、中央公論新社さんのご好意により全文を再録することとします。
二人の結びつきがこれほどまでに強いものだったかを知るには、これ以上の資料はないでしょう。


  • [88]
  • 梅と橘 その拾六

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2013年 7月25日(木)06時24分26秒
  • 編集済
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久保田万太郎は大正2年2月「演藝畫報」に発表した「芝居問答」の中で、
「茶屋を止したりなんかした事は、芝居の風致だとか情趣だとかいふやうな方向から見て、惜しいことですね」と、歌舞伎座増改築時に興行内容・形式を種々改革して起こった茶屋問題について、ある芝居通という人物のの文章を紹介しています。

「これはある大きな商店のご主人で、趣味のよく解つた、藝術にも同情を持つた中年の人が、去年歌舞伎の茶屋問題が起こつた時書いたものですが、一部の人たちの意見を代表したものと思ひますから、一寸お目にかけませう。

『歌舞伎座ではお茶屋を廃すというので一騒動あり増したが、お茶屋があつた方がいいぢやありませんか。
お茶屋から案内されていつて、かねてl附込んである桝へ入ると、男衆が “へえ今日は有難う” とか何とか、その時の場合に相應した挨拶を述べて歸つてゆきます。

それから周囲のお客様を觀察したり、天井を眺めたりしてゐると、折々默つて幕が變わります。
今までの幕の消えて行くあとから、すぐ別な幕が現はれて來ます。“魚がし” や “四日市” の幕は何時見ても悪くありません。
“新橋よた連” などと言ふ幕も出ます。馬鹿な幕です。“連合廣告” の幕が出たりします。さもしい幕です。
やがて隣の空いてゐる桝へ藝者が來ます。おやおやまた藝者か、騒々しい、よく物を喰べる芸者かと思って落膽します。

恁した一種の落着きのある心の状態は、お茶屋といふものが背後にあってこそ初めて生まれて來るのです。
芝居を見る一日だけはお茶屋を見る一日だけは、お茶屋と言ふものが我が家の心持です。

私の若い時分には芝居を見物する女は二番目狂言になる時分から、みんな着物を着かえたものでした。
ススキの帷子を脱いで浴衣に着かえました。
じん仙の今年の柄が人々の目をひいたりしました。人柄なみなりから意気な姿になるのが、芝居の狂言の組合せにしつくり合つてゐました。
一番目には成田屋が渡辺崋山の狂言などを演じますと、二番目には音羽屋が雪駄直しの長五郎などをやりました。

宗した一日の狂言の推移が、見物の女のみなりと調和をも持つてたのでありました。
今日ではそんな事をする人も少なくなりました。
目に立つて美しい娘さんが、浴衣になつてまた別の美しさを味はせたりしたものでした。
その時分にはどんな利口な人でも、茶屋廃止などと言ふ事を考へなかつたのであります。実際お茶屋があつてこそ宗うした芽出度き習慣も生まれますのです。

何も芝居茶屋を廃してしまふにも及びません。あつたつていいぢやありませんか。
廃めようと云言ふことになつたのは、それぞれ商売上の理窟もあつての事ださうですが、それはどつちかといふと枝葉の問題です。
よれよりかも、芝居そのものをどうにかなさらなねばなりますまい。
併しお茶屋があつては、どうしても商売が出来ないのなら仕方ありません。
やつぱり廃めるより外ありますまい。けれども何ぜか惜しいぢやありませんか。如何です。』

なるほど……恐らくかう言ふ心持ちをもつた人たちばかりが、茶屋を廃したつて、一般が特別に便宜を得たとは思はれません。
全く廃してしまふより、多少の情勢を改めて、残しておくべきものでしたらう。
……わたしの追憶のなかには、曇った冬の空の下に続いた花暖簾のうつくしさが悲しく残つてをります。」

この文章が書かれたのは、年号が7月30日から大正に変わった1912年11月のようです。
古老達から聞かされた話が楽しさに溢れたお伽噺の如く感じたように、歌舞伎座での芝居見物の浮き立つような空気感・良き時代の雰囲気が表現されていると思いました。
一部の人たちにとって改築直後の歌舞伎座は、白木で整えられた純日本風建築に馴染むのに少々時間がかかったようですけれども、聞く範囲では場内の雰囲気はとても良かったというです。


  • [87]
  • 予告・第八回 温故知新 偲声歌舞伎音盤

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2013年 6月18日(火)19時29分48秒
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● ニッポノホンによる十五世市村羽左衛門 ●

◎伊勢音頭/福岡貢 ◎すし屋/いがみの権太 ◎お祭佐七/佐七
◎髪結新三/新三  ◎黒手組助六/権九郎  ◎桐一葉/木村重成
◎十六夜清心/清心 ◎助六所縁江戸桜/助六 ◎お楽しみの一枚

役者の中では群を抜いてSP盤収録の多い羽左衛門。まずはニッポノホン盤から。
大正時代の若き羽左衛門と梅幸、松助らの名調子・掛け合いを楽しんでいただけます。
その後別メディアで復刻されたことない録音ばかり、蓄音機で聴けるのはありがたいです。

日時:8月3日(土) 17時開演
会場:押上文庫 墨田区押上3-10-9
定員:50名 料金:3000円(前売り) 3500円(当日)ドリンク込
チケット予約:03-3617-4057(押上文庫)/080-5175-4057(竹下)
       090-4965-2105(関川)

  • [86]
  • 梅と橘 その拾五

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2013年 4月14日(日)01時22分13秒
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増改築後の歌舞伎座は「まるで門跡様のようだ」と言われたりしもしましたが、劇場としては、この頃(第2期)が一番好ましいのものだったのではないかと聞いています。
大正10年10月に漏電による火災で焼失してしまったのは残念で、やはり大火で明治44年春に焼け野原になっってしまった吉原と同様、再建後の劇場はそれ以前の情緒が戻らなかったとは団菊時代から通った芝居好きの人が語った話だそうです。
役者はそのままでも関東大震災後の歌舞伎座は椅子席になってしまい、枡席での芝居見物の印象を激変させた要因なのは当たり前で、舞台にもその影響はあったはず。

震災によって「世の空気感」が変化した度合いも非常に大きなもので、「震災後は何か忙しなく、以前の余裕というものが薄れてしまった。比較して思い起こせばそれまでの時間はゆったり流れていた」と語った故老がおりました。
無血開城により江戸が終わり政権の変わった日本にとって(特に関東)、大政奉還よりも人々の生活の「場」そのものを根底から変えてしまった関東大震災の方が、見えない部分での影響は大きかった…東日本大震災の後では、その違いが経験しなければ想像できないということに思い至ります。

帝劇の出現も芝居の世界に与えた影響は大きく、以前からのスタイルを否定したところから始まった新しい観劇の仕方を世間は流行のように受けいれ、時代の象徴として捉えていきます。
歌舞伎座や他の劇場も習うように改革と称し、それまで以上のスピードで興行形式を変化させてったのは世の流れですから避けられないこととは言え、ために失くしてしまったものもあったと思います。

奇しくも平成の新しい歌舞伎座がこけら落とし公演の最中で、先の内部とほとんど変わらない印象に驚いたのですが、天井の音響を考えた反射板や、席のスペースの拡大等は新しく作られていることをリアルに感じました。
新世紀の歌舞伎座が成功することは確信していますが、東京には本格的な升席で芝居が観れ、飲み食いも自由な小屋があってもいいのではないかと思っています。

明治以降、帝劇が出来るまでにも十二代目守田勘彌が守田座を新富町に移転・開場した時(明治5年)、留場(出方の詰所)・送り(役者の送迎)・かっぱ(客引き)等を廃止し、中村座・村山座(この年に羽左衛門の養父坂東家橘が経営権を手放して市村座から改名)・魚河岸連中(その時期に手を切った)と対立したような「改革」が度々行われてきました。

「留場」は「のん太郎」と称するタダ見客に対する等の警備をした屈強の出方の人間が西木戸に詰めていて、明治末には転じて彼らの詰所をそう呼ぶようになっていました。
「出方」とは店構えを持たない小茶屋で仕出し専門店、当時は席までの案内も大事な収入としていて、改革には当然反対の立場。
一般的に言われた「茶屋」とは芝居小屋に隣接した料亭のような大茶屋のことになります。

明治45年2月発行の小泉迂外著「芝居かゞみ」では、当時の観劇の有様について次のように解説しています。

「芝居見物には個人見物と連中見物との二つがある。個人見物は一人或は二三人乃至五六の家族、友人等を誘ひ合はせて見物するので、木戸から入って出方に案内させるのも、座付茶屋の案内を受けるのも其処は適宜であるが、良き場所で觀劇しやうと思ふ時は豫め茶屋なり出方なりに交渉して後ち見物する方が便利である。

しかし地方から上京する客でも迎へて御馳走に劇場を紹介するとか、芸者でも連れて悠然見物しやうとするには木戸口よりも茶屋を煩わす方が何かにつけて費用は懸かるが都合が宜しい。
斯のやうな場合には普通觀劇料の外に菓子,弁当、寿司、又は酒飲ならば口取なぞを取り寄せ、別に御祝儀として幾何かを出方なり茶屋なりへ心付けとして與へるのである。

歌舞伎座は去冬改革後、此御祝儀を一定して、直営の案内所から見物すれば一人につき十銭、付属案内所から見物すれば一人につき廿銭の手数料を申受ける規約で一番輕便である、明治座、市村座、新富座等は役者次第であるが大概一桝(四五人)で見物するには茶屋へ二圓以上五圓、若い衆に二圓以上三圓の祝儀を奮発しなければならぬ。
又留場からでも出方に五十銭以上一円は心付けるのが普通である。
東京座、演技座、真砂座、宮戸座、等は前記の半額、常磐、開盛、三崎、柳盛、寿、深川、品川等の諸座は又それよりいないを手心して與ふれば鐸山である。

帝國劇場、有楽座、本郷座の三つは祝儀一切は全廃であるから觀劇料の外一文も要らぬのである。

以上はハナレと称して個人見物の場合であるが連中と例へて団体に加盟して見物すれば頗る手輕で祝儀其他の心配もなく見物が能きる。
今都下で連中の主なるものを挙げると、歌右衛門の魁會、梅幸の扇會、羽左衛門の橘會、幸四郎の錦升會、高麗連、菊五郎の音羽會、左団次の莚升會、宗十郎の高賀會、小槌會、吉右衛門の胡蝶會、三津五郎の是好會、東蔵の斗玉會、芙雀の芙蓉會、伊三郎の甲羽會、紋三郎幸菊會の舊派を初めとして高田の渓泉會、喜多村の綠會、伊井の蓉峰會、藤澤の紫水會、河合の水仙會などが著はれている。

其他御園白粉主催の御園會、三つ輪石鹸主催の三つ輪會等は普通の連中見物よりも費用が又少なく手輕の上、景品迄添えて呉れるから、簡便此上も無い。

其他大入場、三階等の下級場所での觀劇法、或は立見(幕見)等は紙面の都合で省略するが、要するに幕見の如きは所謂通人の行すべき手段で、不案内の者が這入ると却て御近所迷惑であらう。」

ちなみに羽左衛門の橘會はお春夫人主催の連中で、関屋愛子は河江會を主催していて、喜美子さんは松竹からの招待もあって、羽左衛門の出演する月には関係者として二回は芝居に行ける環境にあったとの事でした。

「普通なら連中があって、大概、芝居観てから部屋に行きまさぁね、(ほ)すっと普通まぁ『どうもありがとう、観てくれたかい』って言うやね、普通は。
うちは違うんだから…『おぅ、来たかい、どうだい…観たか、良かったろ』頭からこれなんだからぁ…その息で東条さんやっちゃっうんだから回りが泡食っちゃったんだ…わかるでしょ、全てが」

連中で来た人たちが楽屋へ顔を出す時も、東條英機が楽屋に顔を出した時も、同じ勢いで声を掛けるので慌てたと録三郎さんは言っていました。
「東条さん、この戦争は勝てるのかい」
戦争になって誰もが聞いてみたかったことを、こんなセリフの上そのままの勢いで直接東条に言えるのも羽左衛門以外いなかったのだそうです。
当時普通ならこのようなことを口にすれば、憲兵に引っ張られる可能性が高かった。彼はいつの時代も誰に対しても変わらない対応をしたらしい。
これも「市村式」なのでしょう。


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  • 梅と橘 その拾四

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2013年 4月 6日(土)00時21分14秒
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「『西野は鉄道の経験で芝居をやるつもりらしいが、同じ客でも鉄道と芝居は違うから、きっと失敗します』と(田村は)言ったことがある」
「どうせ帝劇の初興行が大入りであることは、田村も前から承知していた。行くゆくは “女優つきの貸家” になるだろうとも、初興行だけは小屋を見に行く客だけでもいっぱいになるだろうと言っていた。
『その帝劇とここで決戦して、こっちが負ければあとの人気に障る』
そう言って、まず芝翫に給金だけは払って休んでもらい、ほかの人たちも皆休ませて歌舞伎座の本興行をしなかった。
その代わりに市村座から菊五郎一座を呼び上げて手軽い芝居を打った。向こうは張り切っているから、こっちはその鋭鋒を避けて、若手の一座で軽くあしらったのは、さすがに戦の場数を踏んだ田村の名将ぶりが見える」(「團菊以後」)

「君、渋沢君が帝國劇場を拵えたことに就いては、君はどういう考えを持っているのかね。」
「さようですねえ、謂わば太閤さまが朝鮮征伐をなすったとおんなじじゃありませんか」(「無線電話」)

一方…

「帝劇に客足が途絶えることはなかった。芝居見物ではなく、劇場見物の客が押しかけた、という側面も否定はできないが、ともあれ柿落とし公演で帝劇は、俄然、帝都の話題をさらったのである」(嶺隆著「帝國劇場開幕」)

「帝劇の座頭の責任をもっている梅幸は、帝劇に対する世間の人気がどうしたと心配した。もし失敗したら役者をやめて田舎へ引っ込もうと言っていたが、初日は序幕が明かぬ前に満員となったので、皆とシャンパンを抜いて祝ったそうである。結局この芝居は翌月までつづいて、三十一日間の興行であった。市中でも寄るとさわると帝劇の噂ばかりだった」(「團菊以後」)

明治44年3月1・2日に開場式として「式三番」「頼朝」「最愛の妻」「フラワーダンス」、4日からの本興行で「頼朝」「伊賀越道中双六」大和郡山政右衛門屋敷の場(饅頭娘)「羽衣」。

開場前後田村らは状況の推移を窺っていて、白い装飾レンガと大理石造りの大神殿の如き外観と、オペラに照準を合わせた内部構造、新しい興行法を世間がどう受け取るか様子見していた模様。
「無線電話」で明治44年5月から三か月に渡り大河内輝剛と室田武里の通信の体で帝劇開場時のことが語られていて、田村は始めは物珍しさから見物は詰めかけても次第に客足は減ると見ていたようです。
(三木竹二亡き後青々園が主宰者となっっていた「歌舞伎」に「新無線電話」として連載)

「芝居には頗る不適当なところでしょう。前が皇居で、右隣りが商業会議所、左隣りが警視庁、うしろが原ときていますからねえ」
「(女優に関して)今のやり方では或いは思い半ばに終りはしますまいかと心配をしております」
「帝國劇場は余り小屋が立派過ぎて、芝居が好く見えない。どうもあれじゃア困ると云った人があったが…」
「(花道が短く斜めであることについて)ある村会議員が起立をする場合、中腰になったことがある。その議長から、あなたはどちらですと云ったら、半分賛成ですと答えたそうで、それに似寄った話で、一向価値のないようだと申したそうです」
「看客誘導主任というものが出来て、渋沢さんの関係から諸会社を始めその他のお歴々の関係から色街、盛り場、実業家界に至るまで連中を促しておりますのも、預かって力あるのだろうと思います」
「(連中は)終りに害があるのだ。しかし、えて素人のやりたがるところなのだ。けれども興行師としては大いに慎まなければならないね。…君も知っているだろうが、『無理に起こした愛情に永続なし』ということがあるからね」
「同劇場が番附と共に配布した場内の明細書で見ますと……一日売り切れて千九百九十円二十銭しか揚がらないのですか(歌舞伎座は三千五百五十円ぐらい)」

興行師としての田村の視点はこれらに代表されるもので、加えて関東では前年8月に千住・浅草・本所・深川・浜町河岸まで浸水した長雨による明治期最大の大出水があり、その復旧も終わったとは言えなかったため、芝居は盛り上がらないと考えるのがそれまでの常識ででした。
明治44年12月15日初日で翌新年3日まで帝劇において女優劇が興行されるのを頭取の尾上梅助が聞いて、「冗談じゃない、深川の歳の市が始まると芝居は客が来ないに決まっている」と言ったのは、そう考えるのが芝居の常だったからでしょう。

芝居関係者の予想に反し世間は「素人」の方法論を支持、「今日は帝劇、明日は三越」と宣伝され、帝劇は明治末から大正期の演劇の地平を押し広げるように新しい客層を掴んで大入を続けていくのですが、記録からは開場時に詰めかけた人たちの興奮が伝わってきます。
来場した主に上流とされる人たちの熱狂が広まっていったという側面もあるのかもしれません。

「帝劇の出現を契機として歌舞伎の興行面に大きな変動の萌しがあらわれはじめた」
河竹繁俊が「日本演劇全史」で指摘しているように時代は帝劇を求めたわけで、それまでの芝居に関わるものたちには予想しきれなかった「興行の読み」の変化・分水嶺があったようです。

3月の歌舞伎座は六代目や吉右衛門らの若手が大奮闘して大入りで、田村の自信を深めさせても、6月興行では欠損が出たため(「無線電話」によれば田村が興行主任になって初)梃入れが必要と判断、夏の間休業し、西洋式構えの帝劇に対し真反対の桃山御殿風純日本式へ改築しました。
そしてそれに合わせ、芝翫の五代目中村歌右衛門襲名興行で勝負をかける事になります。

明治44年11月3日初日で「鎌倉武艦」「近江源氏先陣館」「京鹿子娘道成寺」「堀川」「後面萩玉川」。
「團蔵の先代萩に次ぐの大入で、三萬圓以上の利益があり、二十五日間打つて、さらに二日の日延べを致しました」(「近世劇団史」)

利倉さんの「続々歌舞伎年代記 坤の巻」では「歌右衛門の白拍子花子は立派でした。…踊は此優近頃にない大働きです。衣装を度々着替える為二度ほど引っ込みましたが、あれはやはり度数を減じてもその場を去らぬようにありたい。
…蛇体を現わしてから髪に白毛を交ぜてありましたが、蛇ではどうかと思われました。
勇士と相睨んで幕切れは見た目のためと、一は昔市川宗家お役者が出たとこから荒事を交えたのでしょう…」

芝翫が前回演じた明治39年10月東京座での道成寺(9月30日から)や団十郎の時には二度のお色直しはせず、押戻しもなかったことが分かってきます。
団十郎の道成寺を見た人の話では始め女形とは思えない顔つきが気になったのが、踊っているうちに意識しなくなくなり、舞踊の名手ということを本当に実感し感服したとの事です。

「近世劇団史」では「四代目歌右衛門の得意の藝であるといふ處から、今度の改名に特に選んだものであります。歌右衛門は不自由な自分の身軆に適るやう、花柳勝次郎と壽童に頼んで踊り方を工夫されたと云ふ事でありますが、大軆新歌右衛門の出し物には、此の道成寺は無理でありました」。
しかし前回の東京座でも三木竹二に「規則的に足拍子も踏めぬ程健康の勝れぬ此優がこんな大物を出すのは頭から無理だから、わざと評は見合せる」と書かれた一方、加賀山直三「歌舞伎」で「固疾の鉛毒で碌に動かなかったけれど『真女方道成寺』の真骨頂を見せたといわれている」とあるように彼の舞台は見応えが凄かったらしい。

「これより先七月以来、すでに彼の十一月襲名はあまねく宣伝されていたので、その景気は非常のものだったようである」(「日本演劇全史」)

写真は明治44年11月歌舞伎座「京鹿子娘道成寺」芝翫改め五代目中村歌右衛門の白拍子花子。
舞台面は歌右衛門の上手に羽左衛門、下手に六代目。上手の一番奥は段四郎のようです。他に左団次や吉右衛門もいるはずですが確定できず。
押戻しの大舘左馬五郎照剛は八百蔵。佐々木盛綱は「近江源氏先陣館」の羽左衛門。(「舞台之華」)


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  • 梅と橘 その拾三

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2013年 2月 4日(月)13時04分8秒
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この辺りについては二宮行雄が「演劇界」に連載した「帝劇今は昔」で、役者に関して「その獲得は當局頭痛の種であつた」「その孰れにす可きかに就いては、大いに迷つたのである」とあるように、帝劇内部でも出演俳優獲得には苦労していたようです。
これは帝劇がそれまでの常識を打ち破る運営法を目指していたためで、巨大資本が造り上げる大劇場が目の前に出現しつつあれば、他の劇場側は防御姿勢をとるのはある程度は当然、帝劇の断固とした姿勢が際立つような気がします。

田村の「無線電話」でも「芝翫にも羽左衛門にも、帝国劇場が出来たら、必ず相談に来るだろう。来たらば是非出てやって貰いたい。私なぞははその発起人と云っても好いくらいな関係があるからと、云って聞かしたことがあったからねえ」、と大河内が語った体で書かれています。(本当に大河内はそう語っていたと思われる)
青々園の「團菊以後」では「芝翫の方でも、日本で一番贅沢な建築と設備を具え、早晩は帝室の御用となるべき劇場だというので、自分も無論出演するつもりでいた」とあります。

この10月の帝国ホテルでの会食から翌月11月26日の東京劇場組合設立前後の間で、帝劇は出演俳優を専属とすること以外考えていないと世間的にはっきりしたのでしょう。
東京劇場組合の規定によって帝劇の姿勢が強固なまでにそうなったのか、元からだったのかは分かりませんが、前後の状況からすると元々引き抜きによる専属を狙っていたようなところも見受けられます。

梅幸は10月8日からの歌舞伎座(28日千秋楽)、11月上旬に名古屋末広座で8日間、そのあとすぐの11月15日に大阪浪花座で「式三番叟」「春日局」二幕「風流男」が上演された新築落成舞台開きに出演しています。
翌6日からは「式三番叟」「春日局」五幕「江戸育御祭佐七」二幕(三幕とも)「風流男」大切に「奴道成寺」。
宗十郎の千歳・梅幸の翁・羽左の三番叟だった「式三番叟」は初め三日間の予定だったのを、大受けだったので興行中引き続いて見せることになったようです。
(千秋楽は8日とも9日、10日とも書かれたものが残っている)

移動を考えると12月半ばまでは梅幸のスケジュールは詰まっていますが、12月29日に田村の元へ行き、帝劇出演の許可を願い出ることとなりました。

「わたくしも福澤さんにはこれまでお世話になっておるから、帝国劇場の開場式にはぜひ出勤をしたい。それゆえ三月だけは私が神戸か大阪へ行ったと思って暇を出して貰いたい」

明治43年の暮れまでに出演俳優は決まっていたという一部の情報どおり、年内に田村へ帝劇出演を相談するからには、移籍して一座する他の主だった役者はその時点で決定していたかもしれません。
むしろそれは梅幸が専属となると決まった事で、他の役者も帝劇に移る決心をつけることができた、というのが正しいような気がします。
「音羽屋さんが行くならば…」
それほど梅幸という人は、芸も人格も一方の柱となるべき人物、として見られていました。

「亡父は私を立女形にしようとして仕込んでくれたんです。先代萩が出れば今は成駒屋さんの政岡で、私は八汐をするわけですが、父は私を政岡にしようと仕込んでくれたので、八汐をさせるために私を育てたのではありません」

梅幸がそう語ったことが三宅周太郎「演劇五十年史」には記されていますが、この役は歌舞伎座では極付といわれた芝翫が絶対王者として君臨していたのですから、彼の漏らした不満は無理もないのかもしれません。
姉が成駒屋の細君として嫁いでいたことに加え、若い頃から羽左衛門と三人で遊びに出かけたり仲の良かった者同士でしたが、舞台での役に関しては複雑な想いは持っていたのでしょう。

ちなみに姉・お玉は梅幸の実家、名古屋の信濃屋に預けられていた娘で、母・おていが養女としていたようです。梅幸と同じ時期に上京し、日本橋豊田屋で玉江として座敷に上がっていました。
明治27年8月9日、花柳寿輔(初代)の仲人で芝翫と結婚。成駒屋の河村姓はこのお玉の血筋の名前です。

帝劇が芝翫と羽左衛門へのアプローチと、他の役者に対するものを同時進行させていたかは不明ですが、まず明治39年11月から歌舞伎座の座頭だった芝翫を本丸と見てことを進めていましたので、ある程度プライオリティはつけてはいたはずです。
そして芝翫を断念した時点で梅幸へ切り替え、時事新報の福澤捨次郎が音羽屋を動かす事になります。

福澤捨次郎は福澤諭吉の次男、慶応卒業後MITで鉄道工学を修めた人で、当時は時事新報社長。帝劇設立のスポンサーである元外務大臣林董伯爵の娘と結婚しています。
二宮によると「花柳界に於いても、中々派手な遊びをし、捨さんと呼ばれて、飛ぶ鳥をも落とすような勢で、出入する俳優も亦多かつた」そうです。かなり粋筋に明るい人物だった模様。

そもそも帝劇は明治39年2月の「コンノート殿下歓迎観劇会」の時、歌舞伎座の不手際が続き「もっと高等の劇場が出来れば、あんなに紅白のキレを柱へ巻いたり、松葉をつかってボロ隠しをしなくてもよくなるというので、福澤捨次郎氏が発頭となって、築地の瓢屋や花家へお歴々を集めて相談」し「演劇改良」へと動き出した結果できた劇場ですから、福澤としては梅幸は何としても手にれるつもりだったと思います。

「福澤一家は先代菊五郎このかた久しい間の音羽屋びいきで、梅幸も並々ならぬ恩顧を受けている」(「團菊以後」)
「品川の家作に入れて生活の面倒まで見ていた」(「帝劇今は昔」)」といろいろ書かれています。
六代目が新橋三島屋の勝利であったやす子と、明治40年5月28日に小笠原流古式で結婚の儀を執り行ったのも、梅幸が住まいしていた福沢の別荘でした。
先代から一家揃って多方面に渡り世話になっていた梅幸は、その性格や状況から福澤の斡旋は断ることは難しかったようです。

御殿山の別荘を借りていたのは、五代目の実子でも庶子であった六代目を尾上家の相続人とするために、嫡子だった梅幸が別家しなければならなくなり、家を探していたところ捨次郎からの提案があったためで、生活の面倒まで見ていた、というところは、六代目に家督一切を引き渡した時「自己の財産としては只一個の火鉢を擁したまま、福澤氏の別荘に引き移り」(舞台のおもかげ 尾上梅幸)辺りから来ているかもしれません。
当時、芝翫と並び俳優鑑札等級一等で、東京俳優組合副頭取だった梅幸ですから生活が困ることはなかったとは思うのですが、引っ越しに際し色々配慮を受けていたことは間違いないでしょう。

濱村米蔵の「六代目菊五郎傳」では六代目に移籍の相談をしたのは明治44年1月。
「福澤捨次郎さんへの義理もあつて、私としちやあ、うんと云わなきやならない羽目になつている。木挽町にゐても成駒屋といふものがあるから、女形の私にしてみればどうしても分を食ふことになる。それで、實は肚を極めて丸の内へ乗込む氣になつた。」

梅幸の移籍については当時新聞で、その後色々な資料で推測・噂も含めて経緯が記されましたが、演劇界別冊「女形寫眞集」の中で志野葉太郎が「帝劇入座の交渉の最終斡旋者が同氏(福澤捨次郎)であったことからすれば、断り切れなかったとする方が実相に近いのではなかったか」述べているように、六代目に語ったこの言葉が梅幸の気持ちそのものという気がしています。

やはり福澤捨次郎に対する義理がかなりの比率で働いていて、移籍せずにはいられない立場になっていた…それを納得するためにも女形としてのポジショニングに目を向け腹を括った、が本当のところだったのではないかと思います。

「帝劇の福澤氏自身も菊五郎はきっと加入するだろうと思ったのが、そうで無かったので驚いたとか聞いた。これも噂ではあるが、最初は本人も加入するつもりなのを、門下の古老たる菊三郎が異見したとか、贔屓連が警告したとかで思い止まったといい、あるいは大阪陣に真田の兄弟が、敵味方に分かれて、どちらが負けても家名を滅さないようにした、その故智を学んだ(團菊以後)」とあり、噂だけでなく実際にも兄弟揃っての移籍は避けたのかもしれません。

「菊五郎も尾上家の一大事ではあり、而も其の柱石たる義兄の危急存亡の場合であるから沈思黙考し…『萬一の場合は私が骨を拾つて上げますから勇んでお出なさい…』と熱した目に涙を浮かべて賛成した。
…併し養母たる五代目未亡人は餘り賛意を表せず、むしろ反對的の口吻を漏らして、梅幸の決意を飜へさうとした。
のみならず、梅幸贔屓の有力な人々は、其噂を聞いて憤慨し、梅幸の妻女お藤を説いて、堂々とその不条理不得策たることを呼號するやうになった。」(「舞台のおもかけ 尾上梅幸」)

この時点でまわりから見れば、帝劇は芝居とは無関係な世界の人たちが運営する(井上竹次郎の前例が思い出される)上に、石造りの西洋式劇場(ルネサンス風フランス式建築。ボザール様式の影響とされる)で舞台の前面にはオーケストラ・ボックス、全椅子席の上「盲腸のような」と言われ取り外し式だった短い花道、茶屋出方の廃止など新しい興行法(川上音二郎や二代目左団次が試みたが成し遂げられなかった改革)をするつもりで、それまでにない仕組みの劇場でした。

「何しろ海のものとも山のものとも目當のつかないところへ、前途多望のお前さんを連れて行つて、討ち死にさせちやアならないとも思つてゐる」と二十代だった六代目を気遣っていて、帝劇に移籍しての芝居は伸るか反るかの大博打とまではいかないにせよかなり冒険に近く、歌舞伎座付であり幹部技芸員でもあったため、双方に義理がある梅幸としては心理的にはかなり追い込まれた状況になっていたと考えられます。

「松助は梅幸から泣くように頼まれ、いやとも云えないから、帝国劇場へ出ます。しかし田村さんには年来御厄介になったのであるから、あなたから好く私の身の切ないことを述べて貰いたいと、市村羽左衛門の家内を以って申して来ました」(無線電話)
音羽屋の身内の中でも若き六代目と違って、重鎮「松つあん」には共に戦働きを懇願したわけです。
羽左衛門とはそれぞれの勧誘に関して話は相当していた、と推測しています。

「段四郎は進退をどうしました。」
「私は子供が大勢ありますから、これらを出世させるには、いま歌舞伎座を離れるのは不利と心得ますから、追っては格別、ここはご辞退をいたしますと断ったそうです。」(「無線電話」)

蓋を開けるまではどれだけ成功するか全く読めなかったので、「入座した俳優達は帝劇の事成らずば、最早元へは戻れない。旅へ出るか、或は素人となつて、一生を送る外は無いと、腹を極めて」移籍し「決死隊のような」気持ちだったらしい。

「一月の興行打上げにの日に、歌舞伎座の大入り祝いを兼ねて送別会を築地の新喜楽で開き…互いに心好く別れを告げた」後帝劇に移籍した梅幸の元には、高麗蔵・宗十郎・松助・宗之助が合流し(後に勘弥も)、歌舞伎座は芝翫・八百蔵・羽左衛門・段四郎・猿之助、明治座は左団次、市村座に菊五郎・吉右衛門・三津五郎という主だった劇場の所属が決まり、それに仁左衛門や鴈治郎らの上方陣が彩を添え、東京歌舞伎百花繚乱とも言える時代が始まりました。

不況の中にも日清日露の大戦を勝利して国威・国力が高まり、大正になると第一次世界大戦時の大戦景気から経済の発展、数々の大衆文化が華開いた時期であり、大正バブル(昭和のバブルは何だったのかはよく分からない)のような側面もありましたが、近代日本においては文化が最も爛熟したとされる時代で、それは戦後恐慌と関東大震災で東京が焼けるまで続いたのです。

帝劇所属の面々は梅幸を中心によく纏まり、昭和4年末に松竹に経営権を委託するまで強い結束力を保ったと言われています。

写真は明治40年5月28日、六代目結婚式の時のもの。壮年以降の六代目は好男子と言えると思いますが、二十代の頃の彼もなかなか。
下は明治43年新富町の料亭「萬安」での新年会の一枚。右から六代目、梅幸、栄三郎(梅幸長男)、彦三郎。
(「花道別冊 六代目尾上菊五郎」梨の花會)


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  • 梅と橘 その拾二

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2013年 1月20日(日)14時01分6秒
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それでは分かつことの出来ない二人のはずなのに、何故羽左衛門は歌舞伎座に残り、梅幸が帝劇に移ったのでしょう…
梅幸の自伝や羽左衛門の芸談には経緯が述べられていないですし、彼らの口からは詳しく語られていません。その移籍にはかなり複雑な事情があったようです。

明治40年2月28日に帝国劇場株式会社が設立され、丸の内へ前代未聞と言われる西洋式大劇場の建設を5月に着手、41年12月礎石式が行われます。
井上竹次郎が歌舞伎座から撤退したように、帝劇の出現は東京の劇場に当初から大きな影響を与えました。加えて松竹が新富座を手に入れ東京進出を果たした上、明治43年8月に本郷座を買収して全新派俳優を掌握したので、東京の劇場運営者からすれば二つの脅威が存在していたわけです。
日本初の洋式劇場としては、有楽座が明治41年12月1日に開場しています。

帝劇と松竹への対抗として、十八座が参加した「東京劇場組合」が明治43年11月に設立されています。
この二社からの役者引き抜きを怖れた他の劇場運営者たちの頭には、明治22年歌舞伎座開場当時の「四座同盟」があった模様。
「先年、歌舞伎座が出来た時に、守田勘彌がそれ(役者の引抜きを防ぐこと)に当るために劇場の同盟を拵えて役者を封じ込んだと同じ筆法である」
その当時は歌舞伎座側がこけら落しに歩み寄った同盟の効果を、念頭に置いていたのでしょう。

帝劇・松竹はその契約の中の「甲の劇場に附属した俳優を乙の劇場が使用する場合には必ず甲の承認を得ざるべからず」を受け入れませんでした。この時の三者の対応を見るのはとても興味深い。
東京の劇場側は防御として前例に倣ったように役者を囲い込み、それに対しあくまで専属として引き入れを画策した帝劇。東京の空気を読みながら帝劇の初興行に臨時加入として雁治郎を参加させその後を展開していった松竹。

ここに大河内輝剛がいれば状況は違ったものになっていて、彼が歌舞伎座の代表として健在ならば、同じ三田派である帝劇の人たちとの遣り取りで落し処を探り提携はなされ、役者の相互乗り入れはスムースにいったのではないのか…
ただ、大河内が歌舞伎座を引き受けて間もなく帝劇側に対し合同する交渉をすると、帝劇専務の西野恵之助は「合同は戦ってから後にしましょう。」とその時答えたそうです。
他の役員の井上角五郎・藤山雷太・岡本貞烋・三宅豹三・伊藤欣亮・手塚猛昌も、全て慶応出身の人たちですし…それまでの方法論からの決別を目指していた帝劇は、大河内がいても対抗する姿勢は変えなかったかもしれません。

帝劇は劇場の建築完成が近づき明治44年3月に舞台開きをすることを公表してからも、直前まで出演俳優の発表をしませんでしたので、役者や劇場関係者はその動向に一喜一憂していたようです。
「東京劇場組合」が設立されたその前の月、明治43年10月に帝劇は歌舞伎や新派の俳優の主立った人たちを帝国ホテルに招待、劇場完成を目前にして役者を接待し洋食でご馳走しています。未だ決まっていない役者に対して出演交渉の布石でもあったのでしょうか。
「破顔一笑」で野依秀一は「帝国劇場前祝ひの大失策」として、帝国ホテルでの出来事を記しています。

「先づ以て帝國ホテルの洋食といふのが、自堕落な俳優にとつては窮屈千萬なところへ、一同席につくや澁澤男から『品行を謹まなければならぬ』『人格を重んじなければならぬ』と云ふ、四角四面訓戒であつた。
これでは御馳走に呼ばれたのか、お説教を聞きに来たのかさつぱり訳が解らない。
挨拶度を失つて大まごつきにまごついた揚句。気取屋の芝翫が一同を代表したといふ顔付きで、例の五色の聲を張揚げ『帝国劇場萬歳』と音頭をとつた。
處が舊俳優一同は之に和したが、つむじの曲がつた新俳優は『芝翫生意気な、馬券を買つた刑除の身で、一言の挨拶なしに一同を代表するとは怪しからぬ』とばかり、だんまりで控えて居ると、高田が突然ヌーボー式か何かでつつたち上り、今度は吾々の方でも一つ萬歳を唱へようぢやないかと『帝国劇場萬歳』を調子外れに叫んだので、他の連中はこれに和することもならず、一座愈々白け返り、尻の方から狐鼠々々引き退つて『なんて間が悪いんでせう』は飛んだ喜劇の一幕であつた」

帝劇が開場する直前の演劇世界の空気がそれとなく感じられる記述で、この時点ではほとんどの歌舞伎役者は帝劇に出演する気持ちは持っていたようです。
帝劇の株主でもあった芝翫の動向は主に歌舞伎座の関係者にとって鍵となっていて、帝劇の方針がはっきりしていなかった時点では皆がギクシャクした雰囲気の中にいたのでしょう。
(一説には羽左衛門と伊井蓉峰はこの宴席に招待されず、それは手違いからとも、女性関係の噂があって選考から洩れてしまったとも言われている)
芝翫によるとこの時は役者の起用法等のアドバイスをして「大変に近しく西野さんと話をして居ました」

水面下で芝翫には出勤に向けての話を進めていた最中だと思われますが、それまでにも彼とは何度か舞台や出演者の采配に関して等の意見を交わしていました。
翌月の東京劇場組合設立と前後して、西野は正式に芝翫と羽左衛門へ出演の交渉をします。

「出たいことは山々だが、わたくし共も今歌舞伎座の幹部技芸員であるし、よし幹部でないにせよ、これまで永らくのあいだ取引をした得意先であるからは、同座へそのよしを申し込んで、承認を得た上にして貰いたい(無線電話)」
二人がそう答えると、西野は次のように返したそうです。
「そいつは出来ない。それだと、折角立てようとした新規則が崩れる。今までの興行師と連絡するのは困る(歌右衛門自伝)」

帝劇は所謂芝居者と呼ばれる人たちを近付けずに興行をしたいという考えだったらしい。
しかしこけら落とし公演に鴈治郎を出演させたり、続く4月14日からの第二回公演は河合武雄も合同した新派の大一座ですから、松竹とはスムースにやり取りしていた訳で、西野の想定していた芝居者とは主に歌舞伎座の田村だったのでしょう。

「無線電話」では「これが双方云い開けで、この両人はその儘になった」、「歌右衛門自伝」では「今まで毎日のやうに相談に来ていた西野さんがバッタリ来なくなって、専属といふ名称をつけて、あれだけの俳優を列べました」と、役者への交渉は梅幸に移っていくことになったのです。

写真は上が明治43年6月歌舞伎座中幕「出雲の阿国」梅
の淀の方、竹松の拾丸。
下は明治43年10月歌舞伎座一番目「桐一葉」
芝翫の淀君、羽左衛門の大野修理之亮。(「舞臺之華」演藝畫報社)


  • [82]
  • 梅と橘 その拾一

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2013年 1月20日(日)13時57分53秒
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この頃のことはモノによっていろいろ書かれていますが、ここで触れておかなければならないのは、二人の組み合わせで人気だった出し物は、その後も(それ以前も)見物だけでなく劇評でもかなり評判が良かったという事です。

「羽左衛門の清心は、求女で五代目に散々苛められたのが薬となつて、所持伯父さん譲りで、傑出した出来であり、梅幸の十六夜は道行が濃艶で、強請は根から悪婆にならない處がよく、是で台詞の間延びさへなければ申し分のない出来だ」
と評された「柳巷春着薊色縫」の十六夜清心。

「梅幸の皐月は申し分ない…羽左衛門の五郎蔵は台詞も形も水際立って好く、能く伯父御の型を呑込まれたものだ」
とは「侠客御所五郎蔵」皐月五郎蔵。
「(羽左衛門の五郎蔵は)非の打ち処のないまでの完成品だと云ひたい、男前は良し、姿はよし、台詞の歯切れはよし、清く掃かれた庭へ水を打つて行くやうな爽やかさである」
とある灰野庄平の評は羽左衛門の五郎蔵をよく表していたのでしょう。

「見物も待つて居ましたとばかりの大喜び、三人が三人ながら箱に入つた物で、科も台詞も型にたどる気色なく、全て地に成って居る所が至芸とでも云ふべき」
とある、松助の蝙蝠安と共に三絶のお富与三郎「與話情浮名横櫛」。

「羽左衛門の直次郎は当代先づこの人のものなるべく、松助の丈賀という天下逸品があって一入引き立ちたり。梅幸の三千歳も充分手に入り、度々亡父にやかましく言われて苦労しただけのねうちは見えたり。殊にえんじゅの浄るり、梅吉の絃、当代無類の聞き物としていい気持なり」
とこの頃既に評価の定まっていた「雪暮夜入谷畦道」三千歳直次郎。

「五代目が演じた時に巴の三吉に出て居て、十分見て置いたのが薬となり、愛嬌の無いのと、利巧振つた顔附と、ややもすると駄々ッ子になる決点はあつたが、さて今日この優以外にこれだけに演ずる人は到底見当たらぬ」
「小糸に至つては姿も好し、色気もあり、かう云ふ役は手馴れてゐるので楽々して居て好評」
と書かれた「江戸育お祭佐七」の小糸佐七。

床机に二人座っての場面では、佐七の肩口に糸屑らしきものが付いていたのを、小糸がそれとなく分からぬように取っていたことがあって、この時の梅幸の他から目立たないような仕種を見た人は、役ではなく本当に佐七に情を通わせていると感じたのだそうです。
似た場面は今でも時々目にすることがありますが、梅幸の場合そこには作意がなく本気で想いをよせていて本物の恋人同士を見るが如く、と語った故老もおりました。

珍しいところでは「お染は処女らしく演つて退けたる器用さに驚きたりと。お光はお染を見て我が身の賤さましさを恥ぢ、無意識に身軆を引きあたりと、幕切の寂しげなる姿が宜かった」
と羽左衛門がお染、梅幸がお光を勤めた「新版歌祭文」野崎村などもありました。

他にも「仮名手本忠臣蔵」道行や六段目のお軽勘平、「其小唄夢郭」小糸権八、「明烏」浦里時次郎…。

梅幸が帝劇に移り二人が離れ離れになった後、大正5年3月横浜で久々に共演する舞台に大勢の贔屓が押し寄せたのも、世間はやはり二人の舞台を渇望していたのでしょう。
羽左衛門が出てくれば不思議と時代を越えた江戸の雰囲気に浸ることができ(それはある意味幻想であったと云えるのかもしれないが)、そして影のように寄り添う梅幸の表わす情愛によって夢のひと時を味わえたところにこそ、見物を二人の舞台へと向かわせた魅力の源があったのだと思います。

人々は歌舞伎という情感豊かな演劇の舞台で、東京人が心の奥で請い求める江戸情緒を堪能したかったのに違いなく、当時梅幸と羽左衛門の組み合わせはそれほど人々の心をつかんでいたと古老達から繰り返し聞かされたもので、ただただ羨ましいと思うばかりでした。

SP盤でこれらの後を辿ると、そこに込められた技巧と洗練度に呻らされる他ありません。


  • [81]
  • 梅と橘 その拾

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2012年 4月 4日(水)19時35分51秒
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大河内亡き後の歌舞伎座は社長を置かず、井上角五郎・藤山雷太・岡本貞烋の役員3人が連帯責任で事務方の整理をし(岡本を社長代理)、相談役に飯田三次・川合晋・坂本省三、営業嘱託として会社の事務総括に三宅豹三、田村が興行を担当することに決定。

明治42年11月は大河内に引き立てられていた高麗蔵が、贔屓の矢澤弦次郎との関わりで明治座へ移ることとなった最後の舞台で、大石神社寄附を謳った「忠臣蔵」5幕と「鎌倉三代記」「銘作左小刀」が出ているのですが、珍しく不入りで20日間の興行。(「近世劇壇史」)
高麗蔵は初役で由良之助。他の面子は変らず、しかも団蔵までが高師直で加わっているのに、大河内が亡くなった途端に欠損を出したことには少々驚きます。

井上竹次郎の時代は団菊存命時より興行成績は振るわなかったのに比べ、大河内時代には歌舞伎の本興行は十七回の大入り大当たりで(「無線電話」)、一説には一度の赤字も出していないとか。
(その他には明治40年7月15日からの八日間「日本婦人会保育院慈善興業」、明治41年2月17日からの10日間「日本海軍協会興行」いずれも大入り。日本海軍協会懸賞当選脚本である「花王丸」は長谷川しぐれ作で女流作家による脚本の日本初上演)
「その八回目の興行に団蔵が出勤して『先代萩』の時は優に四万七八千円の利益がありました。この後は知らず、一興行に芝居で五万円近くの金を儲けたということは、神武このかた無いと云っても好いくらいで、これから先でも随分むずかしい事だと云われました」
田村は語っていますが、団蔵の仁木が羽左衛門の勝元に絶句させられた時の芝居です。

通じて芝居立ての舵取りは田村がしていて、当時の時代背景による影響はあるにもせよ、経営トップの死によって芝居の興行はこうも違うものなのかと考えさせられます。
ただし「近世劇壇史」では明治41年11月12日初日で「景清」「三國無双瓢軍扇」「戻橋」「蘆屋道満大内鏡」「信田妻」が出た月は欠損が出て、二十日間の興行だったとありますから、社長のご威光だけとは言えないのかもしれませんが。

その前月9月26日から「西東錦梔時」「女歌舞伎」「苅萱桑門筑紫轢」「江戸育お祭り佐七」が上演された10月興行は、「漸く二十五日打って舞納めた」とあるのがちょっと腑に落ちないところがあります。
序幕の後一番目の新作「女歌舞伎」では芝翫の大内蔵や梅幸の千姫、羽左衛門の三代将軍も上出来で、「華美を極めた衣装と道具と、普く名優を網羅した当座の新作としてまるで絵巻物を拡げたやうな奇麗さがあった」と作者の榎本虎彦共々激賞した劇評家も多かった上、切りの二番目が羽左衛門梅幸の「お祭り佐七」です。
さらにこの興行は訥升が七代目澤村宗十郎を襲名していて、「賢夫人と云はれた同優の妻君は、運動に時日を惜しまず、身體を粉にして、魂かぎり腕限り、見物の狩出しに盡くした」とありますから、もう少し客足があってもいいのでは…。

歌舞伎座で大河内存命時に二十日間の興行だったのは、幹部役者が地方巡業に出て「天下を三分した」と言われた明治41年7月と11月、42年3月の3回(「近世劇壇史」)。
41年7月は六代目と吉右衛門、勘弥ら若手が奮闘して好評だったようです。それでも二十日で打ち切られたのは上がりが少なかったからなのか…はじめから二十日間の予定だったのかもしれません。(初日には三十銭均一)

42年3月は五代目菊五郎七回忌追善興行で、最初十日間に見積もった芝居を二十日間立ての普通芝居とし、菊五郎の銅像を作る目的だったようです。
経営側は入りによって25日打つかどうか決まっていなかった当時ですから、25日間上演された明治41年10月興行はそこそこ客は来たと考えるべきなのかもしれません。
(井上竹次郎が興行に口を挟まない約束で田村に後を任せた明治37年10月には、打日を22日間と定めている)

この頃世間で何かあったのか調べると、10月13日に第2次桂太郎内閣による「戊申詔書」が発布されています。
これは日露戦争後,国民に勤倹節約と国体尊重を徹底する目的の「詔書」。「天皇制に立脚する国民道徳を強化する思想対策の一環として」制定されたもので、明治大帝の名の下での発布ですから国民は真剣に受け止めた筈です。
桂内閣は国家財政を緊縮、予定されていた大博覧会を延期、馬券の販売を禁止するなどの政策を推進していて、「戊申詔書」はその集大成として発表されたようです。

この時期の不入りがあったとしたら(田村は全て大入りと語っていますが)、世の中が緊縮ムードだった時なので、無理もないことなのかもしれません。(現時点で新聞・雑誌等では未確認)

田村によれば、大河内没後も明治43年1月から44年4月までの興行8回はそれまでに劣らない大入り。その采配が当ったことから「田村将軍」という呼び名が広まったのもこの頃からです。
明治43年1月は正月興行としては入りの良くなかった方とはいえ、25日間の千秋楽の翌日に大入り祝いを兼ねた新年会が帝国ホテルで催されていますから、聞く話のとおり歌舞伎の殿堂としての地位は変らなかったようです。

羽左衛門に関しての話としては、明治43年4月1日初日で倅勇が四代目市村竹松を襲名した初舞台興行があり、世間ではすこぶる評判になったとの事です。

少々気になることですが、「近世劇壇史」での木村錦花のこの時の紹介ではいい書き方をしているようには思えないところ(一部分)もあるので、当時岡鬼太郎と共に明治座の興行主任となっていた彼には何か含むものがあったのかもしれません。
本の中では明治41年10月の株主総会の記事以降、収支の内訳金や配当に付いての表記が見えなくなったのは残念です。
彼がこの年に明治座付きになっている事と関係があるかは分かりませんが、錦花は明治44年には左団次と共に松竹へ移りました。
残された資料でも書く人の考えによるバイアスがかかるは避けられないのは当然としても、そうした事はある程度認識しておかなければならないことと思っています。

中で書かれているように連日満員の大入り続き。手配りは前例のないほど大掛かりで、羽左衛門は役者を赤坂の三河屋へ招待して披露をし、どこの花柳界へも顔を出して見物を頼み、櫓の関係上市村座から積樽をする、連中は詰め掛ける、かつてないほどの賑わいを呈したようです。
初日には車で竹松が乗り込んでくるのを、劇場の大間で橘会の連中が、新調した揃いの羽織袴で出迎え、目出たく手打ち式を行いました。

あっさりさっぱりとしていたと思われている羽左衛門でしたが、明るく賑やかな事が大好きですから、自分と同じく跡取り養子の初舞台には得手に帆とばかり目一杯派手にやったのでしょう。
幕開き前に竹松襲名の口上があった中幕「鞍馬山祈誓掛額」では木の葉天狗実は袈裟太郎の羽左衛門が、贔屓客へのお礼の心で本手六法・片手六法・廻り六法・飛び六法など、毎日型を変えて見せたそうです。
彼は見物へのサービス心旺盛でしたから、このあたりは純な無邪気振りが感じられ何とも楽しくなります。

歌舞伎座では21日に二十日間の売上げ人員を、大阪風に幟に記して木戸口へ掲げています。
桟敷932間3枚、高土間704間2枚、平土間2352間2枚、中等場887間4枚、大入場及び大向う28398枚、総人数52791人で、この日築地の瓢家で大入祝の祝宴が打たれています。
全てが未曾有の大掛かりだった為、警視庁はこれ以降運動や連中、義理ごとを取締ることとなり、座方へは花柳界への配り物を厳禁する旨のお達しがありました。

木村はこの大入りは「竹松の初舞台の餘惠である」と口さがない連中屋が言っていたと書いていますが、裏返せばそれほど羽左衛門の人気は高かったわけで、すでに一世を風靡するほどの存在になっていたと聞いています。


  • [80]
  • 初代中村吉右衛門 歌舞伎名場面集

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2012年 3月22日(木)23時38分31秒
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すでにamazonでは予約画面もありますが「初代中村吉右衛門 歌舞伎名場面集」の販売が3月28日より開始されるようです。
「六代目尾上菊五郎 歌舞伎名場面集」に続く、過去に別メディアで復刻されたことのない貴重音源のCD化第二段。

聴かせてもらった感想は素晴らしいの一言。「大播磨」と大向こうが掛かりそうな、舞台を髣髴とさせる雰囲気を味わうことが出来ます。既に松竹へ移っていた大正14年、吉右衛門39歳の録音。
ラッパ吹き込みなのでここでもスクラッチノイズの低減化が図られていて、SP盤で聴くより遥かに明瞭な台詞が堪能できるでしょう。
前回同様、東京国立文化財研究所と関川勝男氏の提供した音源が使われていて、古賀政男音楽文化振興財団の関係機関でノイズクリーニングされたそうです。

1. 天衣紛上野初花(河内山宗俊)松江邸玄関先の場
 河内山宗俊:中村吉右衛門 北村大膳:中村吉之丞 高木小左衛門:市川紅若
 ニッポノフォン 15808~15809 大正14年7月発売

2. 一谷嫩軍記 須磨浦組討の場
 熊谷次郎直實:中村吉右衛門 無官太夫敦盛:中村時蔵 玉織姫:市川紅若 平山武者所:中村吉之丞
 ニッポノフォン 15805~15807 大正14年7月発売

3. 増補桃山譚(地震加藤)伏見城奥庭の場
 加藤清正:中村吉右衛門 政所:中村時蔵 幸蔵主:市川紅若
 ニッポノフォン 15840~15842 大正14年9月発売

吉右衛門は河内山をコロンビアでも吹き込んでいて、それは何度も復刻されていますから、今回のものと聴き比べることが出来ますし、他も義太夫がしっかりしているため気が抜けないで最後まで聴けるのが、なにより嬉しい。

話によるとこの復刻CDが完成し現吉右衛門へ挨拶に行ったところ、「先に私へ知らせがあってもいいのでは…」とあまり機嫌の良い返事ではなかったのですが、CDを聴いた後では「やはり先代は凄かった。写真提供や台詞書きの校正をさせていただきたい」とがらりと対応が変ったそうです。吉右衛門さんも痺れたのでしょう。
ブックレットには河竹登志夫さんの解説があり、若き日に観た吉右衛門への想いが書かれています。

発売元の日本ウエストミンスター株式会社では、この後も名優たちのSP盤復刻を進めるらしく、十五代目羽左衛門や五代目歌右衛門の未だ再販されていない貴重音源が、素晴らしい音質で聴ける日が来るのもそう遠くないのかもしれません。

初代中村吉右衛門 歌舞伎名場面集
初代中村吉右衛門 歌舞伎名場面集

  • [79]
  • 梅と橘 その九

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2012年 3月 4日(日)00時45分39秒
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歌舞伎座は新重役の運営になると嘗てない程の活況を呈していきます。株主へは配当があるほど会社には利益出るようになり、40年には両半期とも一割二分という驚くべき率の配当が渡っています(41年10月には2割)。(近世劇壇史)

大河内という慧眼の社長の下、芝翫を上置きに羽左衛門と梅幸も後々絶品と謳われる数々の名舞台を勤めていくことになります。
二人の劇評は出来不出来が書かれていますが、かなり褒められているものも多く、40年11月の忠臣蔵通しでは羽左衛門に関して三木竹二が「今度の一日替りで成績の最も優れて居たのは羽左衛門で、其の多方面なる手腕は、遠からぬ将来に於いて、歌舞伎劇派の牛耳を取る人たる事を証拠だてた」と評しています。
森鴎外の実弟で芝居の見巧者であり、明治を代表する劇評家から観てもそう写り、古老たちの話だけでなく人気と実力もあったことが伺われます。

勘平や若狭之助がいいのは当たり前ですが、驚くのは初役だった由良之助(これ以前には明治37年11月の歌舞伎座で七段目を2日間そそりで勤めている)まで、芝翫・猿之助(二代目段四郎)・八百蔵という年長の役者を差し置いて第一としていることで、その由良之助に関しては「名家実相録」で羽左衛門本人がこのように語っています。

「由良之助と云ふ役は私の仁ではありません。羽左衛門の勘平は見られた物では無いと云はれるのなら、私の身上に疵が附く訳ですけれど、由良之助が悪いと云はれるのは私の身上の障りにはなるまいと思つて居ました。
猶気丈夫なのは、一日替りで由良之助を勤める後の三人は、私から見ますと先輩ではあり、又年もずつと違ふ老巧の人たち計りですから、この三人に負けた所で恥にはならないと云ふ安心もありました。
…是迄に成田屋の由良之助の芝居にも一緒に出ては居ましたが、前申すずぼらで気にとめて見た事もないやうな訳で、従つて覚えても居ないのです…扨いよいよ自分の番になつて舞台へ出て見ると、由良之助と云ふ役は考えて居たよりむづかしくないと思いました。」

例によって人と一緒に演じるところだけ合わせて、気をとめた稽古はしなかったのは彼らしい。
番付によるとこの時演じたのは、羽左衛門が由良之助・塩治判官・若狭之助・石堂右馬之丞・定九郎・勘平・平右衛門、梅幸が塩治判官・若狭之助・顔世・勘平・一文字屋お才・お軽・大星妻お石。
さらに二人は六段目で猟師狸の角兵衛・めっぽう彌八・種子島六蔵を芝翫、八百蔵、猿之助、訥升、新十郎、翫助、團八、猿十郎、團右衛門、翫太郎と共に日替わりで演じています。

三木竹二の評では由良之助・塩治判官・若狭之助・石堂右馬之丞・定九郎・勘平で羽左衛門が一番の出来、顔世御前が梅幸を第一としています。

[55]「十五代目羽左衛門の初舞台」で明治14年1月の新富座が「千本桜」と「手習鑑」の一日替わりである「松梅雪花三吉野」であることにふれましたが、それは明治11年11月に同座での「仮名手本忠臣蔵」役々一日替わりが大変な大入りで、翌年一月も引き続いて幕を開けたほど評判が良かったのに倣った興行で、その時も人気を博したのですが、明治40年11月の歌舞伎座もそれを倣った企画だったようです。
博覧会のあった年(上野で東京勧業博覧会)は必ず芝居は悪いと興行師は言ったものだそうですし、1月には兜町では大瓦落があったので、守田勘弥創案の一日替りの時ほどではななくとも、中上位の景気で25日間打たれたのは健闘したことと言えるのでしょう。

営業相談役である田村成義が芝居立ての舵取りをしていたにせよ、大河内輝剛という人は羽左衛門の魅力をやはり分かっていたと思うのですが、それは明治42年4月1日からの興行で「狂言も役割もこっち任せで、俳優は一切苦情を言はぬと云ふやうな芝居がして見たい。それが出来れば何萬圓損をしても惜しくはない」と言って「侠客春雨傘」の大口屋暁雨をやらせているからです。

この実録・助六ともいえる狂言は九代目が福地桜痴に暁雨の英雄譚として仕立て上げさせたもので、明治30年4月初演と同じく六幕十三場。
羽左衛門は家橘時代の明治33年6月演伎座で初演。この頃の演伎座は団十郎が若手育成の場としていたので彼の意向が働いていたと思うのですが、不思議なのは染五郎が釣鐘庄兵衛を務めていることです。
九代目自らから初演の後に出された舞台であり、染五郎は荒事には向いていそうな柄の上、家橘とはまたタイプの違った二枚目で当時若手では人気を二分していたのですから、普通は弟子だった染五郎に暁雨をさせるような気がするのですが。
この時は「関の扉」も出ていて、家橘の関兵衛、染五郎の墨染なのですから、ある劇通が言ったように逆のほうが有り得そうな話。団十郎は家橘に暁雨を遣らせたかったのかもしれません。

大河内も同じく人気と実力共に鰻上りの羽左衛門が暁雨を演じる「侠客春雨傘」を観たかったのでしょう。それは見物もまた同様、葛城も釣鐘も鐵心斎も書卸しの役者が勤めた舞台は大入り続きでした。
中幕には「清正公」が出されいたので、会社は三千圓を清正公記念館へ寄附し、翌5月1日からの大阪角座では羽左衛門・梅幸・高麗蔵等が「春雨傘」をそっくりそのまま持って行きましたから、歌舞伎座で初めての「本日もお陰を以て満員と相成り御禮申上候」と大書された「幕外の大入御禮」幕も、伊達ではなかったのでしょう。
(角座での二番目、村井弦斎作「酒道楽」は不評だったようで、初日から4日目には「源氏店」に、大切の浄瑠璃「小袖物狂」が「操三番叟」に差し替えられている。中幕上の巻「鏡獅子」下の巻「二人袴」。千秋楽の23日には一座総出のカッポレ。「近代歌舞伎年表大阪編」)

この大河内が社長になってからは主立った役者を座付きとして揃え、興行成績が飛躍的に良くなり、市村座や東京座を傘下にして「全盛期」と言われたのですから、42年の10月に56歳で胃がんのため亡くしたのは惜しいことです。
来るべき帝劇との決戦、また進出してきた松竹との関係も彼が長く歌舞伎座で実権を握っていれば変って来たはずで、その後の歌舞伎もまた違った展開をしたのでは、と考えると大変残念に思うのです。


  • [78]
  • 梅と橘 その八

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2012年 1月31日(火)00時46分17秒
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明治39年5月27日からの興行で、井上竹次郎とそりの合わなかった芝翫が久々に歌舞伎座に出演します。(そのきっかけになったのは2月10~12日の「英国コンノート殿下歓迎観劇会」と云われている)
この月「助六所縁江戸桜」で羽左衛門は助六、梅幸が揚巻を勤め、「勧進帳」の弁慶が高麗蔵という豪華版でいずれも初役。。大入り続きの大盛況。33日間打たれ会社の欠損を埋めた上に、配当が出来たほど大当たりでした。

「羽左衛門と梅幸が例に據つて、魚河岸と吉原へ挨拶に廻ったので、魚河岸からは紫の鉢巻、吉原からは蛇の目の傘戸、提灯が八十一、飲食店六十餘軒から、印半纏を送ってきました」

明治44年の大火で焼ける前の吉原は、行った人の話によると芝居そのままの雰囲気の仲之町で、とても華やいで情緒があったそうで、舞台にちなんだ昔ながらの約束事も様になっていたことでしょう。

助六と弁慶に関しては劇評で手厳しく、早くから羽左衛門を買っていた三木竹二も初日は拵えから化粧、台詞回しまでに細かく団十郎との違いで比較し、高麗蔵の弁慶も団十郎似との評判とは裏腹にカスを付けています。
団十郎の印象が抜けやらぬ内の両役ですから観る目が厳しかったのも無理はありませんが、どちらも初役の初日。これらは二人にとってここから始まったのです。
「日を経てからは大分見直してきて、持ち前の小柄もさまで邪魔にならずに見ていられたのは、全く芸にかけては巧者な所があるからだと思った」と評には他の続きがあり、助六を上演中に自分のものにしていったことがうかがわれます。

「大門へ面を出すと、仲之町の両側から、馴染みの女郎が吸い付け莨で、煙管の雨が降るようだ」
「大門をくぐるとき、おれの名を手のひらへ三遍けぇてなめろ、一生女郎に振られるという事がねぇ」

女郎衆の誰もが惚れる姿形と色気、豪胆で明るい江戸前の気風からもこのような台詞を掛け値なしの本心で言える役者は彼以外には考えられないとまで思えます。SP盤小唄集として残しているツラネを聴けばそう感じることができ、現在伝わっている台詞回しとの違いにも唖然とさせられるはずです。
助六は羽左衛門を待っていた。この時に平岡吟舟が小唄を作り、それが世に唄われたとのことです。

安房上総 まだ唐までも君ならば 好い評判も橘や
此の鉢巻は過ぎし頃 目玉の小父の置き土産
けがしはせじと揚巻も ともにごひいきたの三升

10月10日からの興行限りで歌舞伎座を去ることになった井上竹次郎は、最後を華々しくするために大阪から中村雁治郎を迎えようとしました。
すでに松竹付きとなっていた雁治郎は快諾し、「心中天網島」で東京の見物の目を見張らせたそうです。この役者も絶大なる魅力。
SP盤で濃厚な上方の雰囲気と真似の出来そうにないしゃがれ声、今では耳にすることの出来ないニュアンスの上方弁には酔わされてしまい、あちらの台詞回しも変化していることを知ることが出来ます。

井上は近々丸の内に建設費85萬圓、営業費15萬圓の劇場が建つとの噂に劇場経営が困難になると踏んで、折りよく大河内輝剛らの三田派名士から倍以上の株価で譲ってくれないかとの話に乗ったのでした。(近世劇壇史)
大河内が社長に就任し、三宅豹三を顧問に、営業相談役は田村に決まりました。
(井上と共に田村も一度引退しているが、新経営陣となった時、興行主任として依託された)

10月上旬、大河内は竹川町の花月楼へ芝翫をはじめ主だった役者を招き新重役の挨拶をし、今後の方針の懇談を持って、芝翫・梅幸・八百蔵・羽左衛門・猿之助(初代)・高麗蔵・訥升に鴈治郎を加えた八人へ幹部技芸員の肩書きを与え専属としました。

実際に花月楼へ出向いたのは芝翫・梅幸・八百蔵・羽左衛門・猿之助・高麗蔵・訥升・菊五郎・吉右衛門の九人で、松助や市蔵(片市)も呼ばれていたのですが、松助は一歩も二歩も下がる人なので断りを入れ、市蔵は病気で不参加となりました(明治39年12月11日没)。
ただし、歌右衛門によると鴈治郎が幹部になったのは後の事で、松助は最初に辞令が出ていたのですが謙遜して受けなかったため、その辞令書はしばらく歌舞伎座の金庫の中に納めてあったらしい。
田村の「無線電話」では鴈治郎と団蔵は客員として声をかけていたところ、団蔵は辞退して受けなかったようです。

さらに席を芝翫の部屋へ移し、大河内は皆に技芸委員長を決めなければならないが成駒屋へ頼みたいが、皆どうですと訊ねます。誰も不服を言うはずは無く、改めて彼を技芸委員長としました。
青々園によると、実はその前に田村が皆を承知させていて、芝翫が真っ先に自分へ交渉すべき筈だ、との返事に「君から先に交渉すると咄が壊れてしまうから」と答えると、不機嫌だった顔が急に和らいだとのことです。
芝翫からするとごく当然な段取り・話でも、豪然で気難しく思われていた彼は、興行側からすると扱いに気を使う一面もあったのでは。

しかしこの人事は当然のことと思えます。団十郎の腹芸、骨法を継承した役者は彼だったと言われるのも、人物の器の大きさが王者の風格を備えていたためで、座頭たるは団菊以降この人を置いて他になかったはず。普通にしていても皆からは文句は出なかったでしょう。
その後も(松竹に経営が移ってからも)、この歌右衛門と羽左衛門に対しては、彼等の望む扱いを経営側はしていたようです。

これで芝翫が本式に歌舞伎座へ復帰となり、団菊以降としての歌舞伎黄金期を迎えることとなります。


  • [77]
  • 梅と橘 その七

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年12月13日(火)16時19分5秒
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明治37年2月10日に日露開戦となると、東京だけでなく全国的に芝居小屋では日清戦争時の活況を当て込んで戦争ものの新作が幅を効かせましたが、世の混乱があったのか、幾つか例外はあるにしても歌舞伎にしろ新派にしろ不入りが続いたようです。
歌舞伎座は井上ら経営陣に受けの良かった八百蔵を座頭に、羽左衛門・梅幸らの音羽屋一門を中心に座組しても客入りは厳しかった模様。
団菊が亡くなった後、井上竹次郎のやり方に反発して役者の有力どころが次々抜けていく上、ロシアという強大国との一騎打ちである戦争で芝居どころではなかった空気が蔓延した当時では、見物の足が遠のいたのは無理もないといったところでしょう。

歌舞伎座株式会社としてではなく井上の手興行だった6月の芝居を打ち上げた後、羽左衛門・梅幸の音羽屋一門は彼に対する不満から、前年来の約束があるとして7月13日には横浜羽衣座に、8月3日から3日間行われた市村座での俳優組合主催の演芸奨励会、8月6日から再び羽衣座、9月には名古屋巡業に回り当分距離を置く態度を見せました。(近世劇壇史)
約束を理由に巡業に出たのは二人が音羽屋一門で話し合った上での事でしょうが、波風を立てない形にしたのも梅幸の深い配慮が働いていたのだと思います。事実前年の6月は横浜羽衣座、37年の2月には名古屋へ巡業に出ており、この頃の音羽屋総帥は梅幸ですから、これらの地方巡業には当然松助や六代目も加わっています。

羽左衛門・梅幸のいなかった間に歌舞伎が打たれたのは、7月の八百蔵が中心となり「不入りというより丸潰れ」と書かれ12日間で終わった一興行だけですから、歌舞伎座というより手興行を続けようとする井上竹次郎から離れたが的確ではなかったかと思います。

井上が歌舞伎座の実権を握っている間はスムースにことは運ばなかったように書かれているものが多く、歌舞伎座の収支報告も赤字が続いていました。結局井上が興行面に口を出さない約束で運営の実権が田村成義に移った10月興行からは、羽左衛門・梅幸が復帰し好況となります。
井上の事を田村は別の一面から評価していますが、彼は芝居畑外の出身のため団十郎とも行き違いがあったり、役者からの受けが良くなかったのでしょう。
ちなみに吉右衛門は音羽屋一門が井上から離れた時にも歌舞伎座に踏み止まりましたので、若き六代目と歌舞伎座で舞台を共にしています。

明治37年の歌舞伎座は上半期に歌舞伎で1月が振るわなくても、4・6月は井上の手興行により会社に被害が少なかった為なのか、そして下半期は井上退陣から10・11月は好成績で、両半期欠損は出さすに済みました。

明治38年になると相当客入りが良くなったようです。高麗蔵や訥升が掛け持ちで顔を出し始めましたし、5月22日からの五代目菊五郎三回忌と坂東家橘十三回忌の追善興行、9月23日からの九代目団十郎忌追善興行もあり、また年明け早々の旅順陥落の報で日本中が沸き立ち、9月5日のポーツマス条約調印で戦争が終わったのも、人々を芝居見物に向かわせた要因としては大きかったのではないかと思います。

当時の劇評には羽左衛門に関してはかなり出来が良かったと書かれていて、明治39年1月歌舞伎座「祇園祭礼信仰記」の藤吉などは「歌舞伎劇の模範的俳優として恥ずかしからぬ」とあり(近世劇壇史)、その人気振りがうかがえるのですが、同じ月の「伽羅先代萩」で共に初役として羽左衛門が細川勝元、梅幸が政岡を勤めており、その評が興味深いので引用してみます。

「一番目は梅幸の初役の政岡、政岡としては年配が足らず、重みに乏しかったが、子持ちの母親と云ふ情は芝翫よりも此の人の方が勝っていて好評」

これは歌右衛門と梅幸の芸風の違いを感じさせる評だったのではないかと思っています。重みに関して歌右衛門の有無を言わせぬ貫禄は他の誰にも換え難く、梅幸といえども敵わなかったのでしょうけれども、梅幸の方は情味を表わすには長けていたので、必然的に世話物の方が鮮やかに見物には写り、その印象として残されていくこととなります。
しかし梅幸とて(歌右衛門を別と考えれば)圧倒的存在の女形だったに違いないはず。

残された録音を聴けばそのことがよく解かり、歌右衛門の「先代萩」の政岡で「含み声」と言われる滋味溢れ温かみを感じる声や、梅幸の「江戸育御祭佐七」小糸の情愛や江戸下町の情緒感は、何とも歌舞伎とはよいものだなと感じさせてくれました。
二人共通する作った声には聞こえない女形の口跡には、見ることが叶わない時代の芝居への憧れが詰まっています。

「伽羅先代萩」歌右衛門の政岡。「花の役者二代」梨の花会版
大正14年7月歌舞伎座「江戸育御祭佐七」羽左衛門の佐七、梅幸の小糸。大正14年8月号演芸画報


  • [76]
  • 梅と橘 その六

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年12月 1日(木)23時59分22秒
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「絶代の名優溘然として不帰の客となり黄泉万里の首途を為す悲しきかな」

五月の歌舞伎座で高麗蔵襲名の舞台後、いつものように夏場(と寒中)は茅ヶ崎の別荘「弧松庵」に過ごしていた団十郎が、9月13日66歳で亡くなります。
梅幸はじめ音羽屋一門にとってだけでなく、歌舞伎界にとって団菊を立て続けに失ったことは「暗夜にともしびを失ったようだ」と芝居が今後どうなるかの不安が充満したようです。
羽左衛門襲名を目前に控えた家橘にも大打撃だったに違いなく、引き立て続けてくれた団十郎が舞台で口上を述べてくれる予定だったのに、その機会は永遠に訪れなくなってしまった訳です。

この9月13日(日曜日)のことは、「団菊以後」や岡本綺堂の「ランプの下にて」に紹介されていて、この日家橘は羽左衛門襲名を新聞記者に披露するために大森の料理屋「松浅」で一席設けていました。
記者には伊原をはじめ、岡本綺堂、岡鬼太郎、伊坂梅雪、右田寅彦、杉雁阿弥などが名を連ね、15人か20人ばかりであったであろうとは青々園。
朝から茅ヶ崎に見舞いに行っていた家橘が団十郎が亡くなった事を雨の中伝えにやって来て、すぐさまとんぼ返りに戻っていくと一同は暗澹たる気持ちにはなったとはいえ、無休刊の新聞の記者以外は「松浅」に留まり、素人芝居に興じたというのですから驚きも。
事実上歌舞伎のトップであった団十郎の死の知らせにも動かず、自分達の遊興にふけっていたとはちょっと意外な感じがします。
その頃の新聞には夕刊どころか二版三版もなく、またノンビリした時代だったので新聞記者がそれで良しとしていたのは、青々園が後に語っているように当時の空気はそういうものだったのでしょう。

家橘は36年10月17日からの歌舞伎座で、十五代目市村羽左衛門を襲名。
黒羽二重に薄柿色の小紋の裃姿で両脇へ上手に九代目団十郎、下手に五代目菊五郎の写真が並べられた舞台の中央に唯一人、「口上をいってくれる、小父の菊五郎も団十郎も亡くなりました。」と口上を述べ、その健気とも思える姿勢・意気が好評だったそうです。
しかし襲名のお披露目で自分ひとりの口上は異例なことだと言われました。小父さんがいなのなら、いっそひとりでやろうと言ったためなのですが、思い切りのいい彼らしいやり方だったと思います。

「松栄千代田神徳」中幕「義経記」二番目「紙子仕立両面鑑」大切「小春時歌舞伎賑」。
羽左衛門は一番目の序幕「駿州三保ヶ原の場」で今川駿河守義元、三幕目「二股城内の場」で徳川信康、大詰「勢洲白子の濱廻船宿角屋の場」「三州沖干鰯船の場」で榊原小平太康政。
梅幸は序幕で天津乙女、二幕目「岡崎城奥殿の場」「築山殿奥庭の場」で湯殿女中お万。芝翫は通して徳川家康。
この後に十五代目羽左衛門の襲名口上がありました。

中幕は羽左衛門の出し物として相応しいように「船弁慶」を「義経記」と改題したもの(番付では「船弁慶」)。
家橘改め羽左衛門で知盛の霊・静御前。梅幸は駿河次郎。芝翫は船長。長唄には芳村伊十郎、三味線に杵屋六左衛門ほか。

二番目は芝翫といっしょに大阪から招かれた我當が、和事・老け役・半道を仕分けることを売りにした上方狂言。いわゆる「大文字屋」。
梅幸は上の巻「大阪新清水地内の場」下の巻「大阪本町通り大文字屋の場」に扇屋揚巻として出演。

大切は浄瑠璃で常磐津林中が出演しています。歌舞伎座を模した洋式の建物(当時の歌舞伎座は当初の洋風)が舞台面に再現され、幕が開くと名人林中の出語りになり、奥から頭取奥役等が現れ「今日は歌舞伎座の十五年祭について贔屓連の趣向がある」との台詞が一くさりあり、昔風の男侠・女侠七人づつが東西の両花道より各々楽屋落のツラネの台詞で舞台に出て来ます。
その後若手の踊りがあって一同シャンシャンと手を打って目出度く打ち出し、最後に頭取新右衛門(新十郎)が「まず今月は是限り」。祝いものの新作でした。
羽左衛門は女侠およばねお六で、梅幸はせい高お幸。
芝翫:魁お玉、高麗蔵:大食冠高麗五郎、八百蔵:宿替八百右衛門、六代目:おてんばお菊、吉右衛門:ペンキの吉五郎、我當:高津の仁平、松助:刻銘の松五郎、八十助(七代目三津五郎):いさはの八十吉 等々。

この翌月には芝翫、翌年の2月には高麗蔵・我當らは東京座へ走り、8月7日には団菊左最後の名優・初代左団次が没し、川上音二郎を中心とした新派の台頭とそれに対する世間の注目と、日露戦争前夜の為きな臭く騒がしい世の中に芝居は振るわなかったようで、いろいろ書かれたものはありますが、羽左衛門と梅幸のコンビは人気も高かったそうです。
この頃から梅幸が帝劇に走る明治44年までの間を「羽幸時代」と贔屓の間では言われた事もありました。

「羽左衛門伝説」(毎日新聞社刊)

  • [75]
  • 梅と橘 その五

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年10月15日(土)01時27分37秒
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「かれは明くる三十六年の二月十八日、六十歳を以てわが劇界と永久の別離を告げた」

明治の劇壇にとって大変動の年となる明治36年、養父五代目菊五郎が死去。
2月8日から二座に掛け持ちしていた栄三郎は、東京座一番目の「鏡山故郷錦」で中老尾上、家橘はお初、二番目「太閤栄華巻」で幾瀬姫、家橘は松下右衛門。宮戸座の「鬼薊廓色縫」で十六夜後清吉女房おさよ、家橘は極楽寺の所化清心後鬼薊の清吉で出演。
15日に菊五郎は平河町にあった主治医橋本博士の御邸へ年頭伺いに行っていた席で、脳溢血が再発、新富町の自宅に運ばれた後亡くなりました。
梅幸が尾上を勤めたのはこの時が最後となったようです。

それに先立ち前年の大晦日に成田屋宅を訪ねた音羽屋は、酒を所望し寺島家の相続に関しての長話を。
「わたしも栄三郎という惣領を持っているが、あれは養子で、その後に出来た実子の丑之助がある。だから、わたしの跡は実子丑之助に継がして、養子栄三郎には梅幸の名前を継がしたい。その栄三郎の名前は弟の栄造に継がしたい。自分ではそう思っているけれど、家庭の都合で自分の口から言い出すわけに行かぬが、お前が口出しをしてくれれば屹度そうなる。どうか頼む」
団十郎はそれに対し、こう答えて黙り込んだそうです。
「おいらだって困るじゃないか」

五代目が亡くなった知らせの後、すぐに新富町へ駆けつけた団十郎が相続の件を持ち出して六代目に継がせるという話は、横浜富貴楼の女将おくらを介してのことだったそうですが、物の分かっている栄三郎と残された一門はその通りにし、異存はありませんでした。
菊五郎宅も含め寺島家は栄三郎が相続していて、実子でも庶子であった六代目に跡を継がせるのは戸籍面で許されない事だったので、時事新報社長の福澤捨次郎を「煩わせて」相続権と邸を六代目に譲り、自分は翌37年12月5日に品川御蔵山(福澤の別荘)へ移っています。

五代目の葬式を出した翌月、明治36年3月16日からの歌舞伎座で栄三郎改め六代目梅幸、丑之助改め六代目菊五郎、栄造改め六代目栄三郎と、兄弟揃った六代目への改名となります。
一番目に「清正誠忠録」、中幕の「吉例曽我礎」で梅幸の十郎と六代目の五郎、その前の襲名披露の幕で口上を述べた団十郎が工藤を勤めました。二番目に「花盛劇楓葉」、大切「鶏合男子舞」。
この時の六代目の五郎は素晴らしく凛々しい写真が残されていて、若く未だ細めながら力感に溢れ、彼の中では好きなものの一枚です。
梅幸の勤めた役は渋川の娘楓、曽我十郎祐成、百尺女房おしの、男舞腰元梅路。家橘は浅野左京太夫幸長、秦野四郎、天竺徳兵衛、男舞立花。

二番目は福地桜痴の新作、安政4年4月猿若町森田座で「天竺徳兵衛」を演じている市川市蔵に、肥後藩士が見物席から舞台に飛び上がり斬りかかった事件を脚色したもので、その侍を市川権十郎が勤めています。
岡本綺堂は「あまりに実録に囚われたためか、劇としての興味に乏しいという批難が多く、居士の作中では不評のものであった」としていますが、年代記では「可来りの景気なりき」とありますから観る人によって評価の分かれる出し物だったのかもしれません。きっと面白かったろうとは思いますが。

この権十郎は二代目であり、璃鶴時代の明治4年6月守田座へ出演中、例の夜嵐お絹の事件でその情人として捕縛投獄され、明治7年刑期を終えた後は団十郎の門下に入り川崎屋として舞台に復帰しました。
旗本などの武家ものを得意とし、当たり役とされる「湯殿の長兵衛」水野十郎左衛門の槍を構えた写真を見ると、羽左衛門を連想させるハッとする程の水際立った立姿に驚かされます。
当時かなり世間を騒がせた事件の関係者でありながら名門に弟子入りし直し追々昇進、団十郎直門の主席にまで上り詰め人気もあったのは、いい役者だったからでしょう。
五代目菊五郎の抜けた穴埋めとして久々に歌舞伎座へ招かれたようですが、肺炎のためこの時が最後の舞台。

梅幸はこの年の11月に新橋堺家の芸妓君子であった富士子と結婚。その後赤坂仲の町へ「すべて名古屋式にして見たい」考えで、職人を生国名古屋から呼び寄せ屋敷を構えました。
川尻清潭に語った芸談「名家実相録 其九」が発表されたのは明治40年11月で、そこでは普請中とあるので少なくとも10月ぐらいまでは御殿山にいたことになります。
かなり入れ込んだ普請だったようですが、ここはしばらくして赤坂水戸幸に譲ったらしく、震災時には芝公園に住んでおり永田町へはその後移ったようです。
ちなみに羽左衛門も同じ月に芝神明三州家市若の春と結婚しています。

写真は赤坂仲の町の自宅で寛ぐ梅幸一家。梅幸の隣は長男丑之助(後の七代目尾上榮三郎)。富士子夫人に抱かれているのは次男の秦(後の泰次郎)。(演芸画報大正2年9月号)
この部屋が「昔豊太閤桃山の書院に於いて残月を眺められた故事のある、残月床一名残月の間」に倣ったという客座敷のようで、自伝で気を入れて説明している凝りに凝った名古屋式普請です。


  • [74]
  • 梅と橘 その四

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 9月26日(月)02時49分30秒
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明治24年5月新富座22歳の時、尾上栄三郎に改名して名代に。この時後に六代目となる、五代目の実子幸三も丑之助と改めています。

一番目「御所模様萩葵葉」で三本木の芸妓若勇と美部修理太夫、中幕「増補姻袖鑑」、大切「愛宕館芝浦八景」では華族の令嬢高輪晴子と龍宮の侍女雄波。
大切で栄三郎名題お披露目がなされ、同時に改名した市川米蔵と華族の紳士令嬢の踊りが出されました。菊五郎が栄三郎、左団次が米蔵の口上を述べています。
中幕ははじめ一番目が三条実美の伝記だったため、それに因んで岩倉具視に岩倉宗玄をきかせた「花吹雪岩倉宗玄」だったのですが(続々歌舞伎年代記・番付)、岩倉具視の伝記と云われるのを避けて題名を「増補姻袖鑑」に変更。お上からストップが掛かったようです。

六二連の評で栄三郎の芸妓若勇は「菊五郎に命の無心をされ悪びれぬ仕打よくこなしされたり」とありますから、まずまずの出来で舞台を勤めたのでしょう。
ちなみに竹松は一番目に会津屋の娘おなみ、大切で踊子竹之助を勤めました。

それからも五代目からは舞台に関しては勿論、普段から事あるごとに芸に関し教授され、話好きだった養父菊五郎は興行中でも芝居が打ち出して後、必ず誰かしら相手の人を呼び寄せては明け方の3時頃まで続く話に付き合わしており、栄三郎は当時人気役者でもあり遊びたい盛であった為やたらに外出したかったとは言え、食事をしながらでも憶える心算もあったと語っています。
酒はいける口だったので、五代目から猪口を差される度グイグイ飲んでいましたから、盃一杯で真っ赤になっていた下戸の羽左衛門とは正反対。脳溢血で倒れるまではかなりの量(晩酌に一升)を呑んでいたようです。

濱町に秋田ぎん、亀井橋に辻井うめの妾宅があった五代目は、そちらへ泊まりに行っても「今夜芝居が打ち出したら亀井橋へ寄んな」「話があるからか濱町へ来ねえ」と家橘と共に呼んで夜っぴて芝居の話を語り、その内容は昔の名優が相手方を仕立てた話、名人上手が演残して来た型、名優になる心掛け、舞台上の行儀、五代目が先輩から小言を言われた話、自身の工夫や新狂言に付いての新案等、「よくも種が盡きないものだと思ふ程、それからそれと語り續けられ」たそうですから、芝居にどっぷり浸った日々だったのでしょう。

六代目もその辺りはそっくりだったらしく、七代目梅幸と親交のあった方が直接聞いた話によると、六代目は夜食からそのまま芝居の話になだれ込み、夜遅くにまで及ぶそれに付き合うのが大変で、前に座った若き菊之助、松緑、彦三郎(十七代目羽左衛門)らの後ろには、眠くて堪えきれず爪楊枝を使って目を開いているように見せていた者も居た、と冗談のような場面もあったそうです。

音羽屋の長兄であった梅幸は「女形の芸談」はもとより「扇舎閑話」「名家実相録」を読んでも、とにかく芸に関しては五代目がらみの話として語っていているのは彼の気質が感じられ、「礼」と「義」を重んじる人だったのだと思います。
役者にならないで政治家になっていたら必ず大臣になる人だ、と云われたように聡明で人格も立派だったらしい。
明治22年に出来た「東京俳優組合」は団菊の死後、五代目芝翫が頭取、六代目梅幸は副頭取で運営されましたが、後の「大日本俳優協会」では昭和5年から会長を務めました。歌右衛門はその時、名誉顧問に。

梅幸の芸についてこの人ならではというものに「怪談もの・変化もの」があります。歌右衛門に淀君ものをやらせれば他の追従を許さなかったように、怪談もので梅幸に比する人はないとされていました。彼の演じる幽霊は一種特別の怖さがあって、楽屋に出前を届けに来た蕎麦屋が舞台から戻った梅幸の姿を見て震え上がったそうですから、普通の人には出せない雰囲気を持っていたのでしょう。
ここは六代目梅幸の大きな特徴です。

初演から「可憐にして凄艶、いかにも牡丹燈籠の持ち主であるらしく見られた」と好評だった明治25年7月の歌舞伎座「牡丹燈籠」の飯島の娘お露や、歌舞伎に馴染のない若い観客も顔を伏せるほど怖く幽霊もので白眉と言われた「累ヶ淵」の豊志賀、「色彩間刈豆」の累等々枚挙に暇がないほど、変化ものをやらせれば右に出る人はいなっかった。
写真を見ても独特のらしさ、怖さが伝わってきます。他の役者の写真では中々そういかないのですが、彼の場合、「四谷怪談」のお岩さまなどでは今で言う特殊メイクに近い感を受けます。
背が高く手足の長かった容姿も、その怖さを出すことにうまく働いていたのかもしれません。

俳優鑑などで羽左衛門の身長は五尺三寸≒1.60m。梅幸は五尺四寸五分≒1.65mになっていますが、十七代目羽左衛門によれば自分の身長(五尺五寸八分)から言っても五尺六寸≒170cmはあったらしいですし、普段の写真を見ても当時の梨園ではかなり背が高かった模様。一説には今の玉三郎ぐらい(五尺八寸≒175cm)あったと云う人もいたので、やはり大きな人だったのでしょう。
羽左衛門は幸四郎と同じ位、むしろ少し高かったことが写真で分かっていますが、彼の印象は「白眉長身」と書かれたように舞台では大きく一杯に感じられ、実際には10cmは違っていたと思われる自分を小さく見せることに勤めていた梅幸との舞台は、釣り合いが取れぬとは煙ほども感じられなかったそうです。

どこかで読んだ記憶ですが、ある役者が後輩か息子に語ったこととして、梅幸の女形としてのあり方が「音羽屋さんは特別だから、お前はそれをそのまま真似ることはやめておいたほうがいい」という話があったのですが、彼は羽左衛門に合わせる為にかなり膝を入れ、腰を落していたようで、あくまで相方羽左衛門に的を絞った舞台にしようとの考えだったので、他からもそれが分かり、その役者はそう語ったのでしょう。

「扇舎閑話」で家の芸となっている「骨寄の岩藤」の岩藤役を語っていて、後には五代目に絡んだ怪談話なども述べており、例によってこの「増補加賀見山」をかなり専門的に解説しています。
「女形の事」では「戻橋」の詳細を自らの体験も織り込んで残していて、そのあとに苦心談も加え、それは明治23年10月歌舞伎座で養父菊五郎が初演した時、初日以来毎日揚幕から舞台を見て形を数十種の画にして写し取っていたためでもあり、自分が明治37年に演じた時も気を入れたのでしょう。
「土蜘」「茨木」「骨寄の岩藤」「播州皿屋敷」「四谷怪談」など家の芸に関して詳しく語っているのも後世に伝える心算だったと思います。

狂言の覚え書として「女形の芸談」も含め役者の著書でこれらに匹敵するものは歌右衛門の「歌舞伎の型」、六代目の「藝」以外なく、この時代の女形の両巨頭が極めて専門的に詳細を残しているのは、ある意味時代の要請でもあったような気がしています。それ以前は全て口伝や見て盗むしかなかった。
当たり前なことかもしれませんが、本職の専門家がどれだけ腹に仕込んで舞台を勤めているのかを知ると驚かされます。

新古演劇十種「土蜘」前シテ叡山の僧 智籌。下は蜘の精。大正14年12月京都南座。


  • [73]
  • 梅と橘 その参

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 9月 7日(水)14時14分27秒
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菊五郎の所に入ってからは稽古事に勤しみ、踊りは浅草田町の花柳寿輔、植木店の藤間、花町の藤間、自宅では花柳勝次郎に習っており、義太夫は野澤清六、琴は中之島、鼓は望月、茶道石州流、生花は古流、日本画は四条派松岡緑芽と芝永章、学校は入舟町の宝田学校(「女形のこと」では村田学校)へ通っていました。

「両親ともに、なかんづく養母さとの気に入らず、はたの見る目にも哀れっぽい生い立ちで、小遣いなども不自由がちだつた。そのせいもあり、ひとつには竹松のはうをぼやけさせる気持ちにも手伝はれてか、絲は栄様、或いは栄坊っちゃんと呼んで、一番可愛がつているやうに見えた」
「羽左衛門伝説」では竹松と同年代の役者の子供達を椿御殿に招いた時や、飲食などでもてなした時の事がそのように書かれていますから、養子に入っても甘やかされて育ったのではなかったらしい。

芸の方も五代目に徹底的に仕込まれ、その厳しさは「伝説のような厳重さ」と言われたほどで、演芸画報明治40年11月号の「名家実相録 其九 尾上梅幸」で、喧しく言われた事を述べている中から幾つか。

「山形地方を興行して居る時に、おやじ(菊五郎)の狐忠信で、私が静御前を勤めました時、私は其頃鼓の稽古をして居ましたから、自分ではいくらか自慢げに打ちますと、縁の下に入っているおやじの狐忠信が、そんな打ち様ぢや出られない出られないと云ふのです。
しかしどう云ふ工合に打つたらいいのだか分かりませんから、それではどう云ふ風に打ちませうと聞けば教へて呉れないで、自分で工夫をしてみろと云う計りなのです。

けれ共別にかわった打ち方も出来ませんから、翌日も亦其通りに打ちますと、矢張り出られない出られないと云って、舞台で盛んに小言を言はれるのが見物に聞へますから、見物は私の事を大根大根と云ふのです。
其つらさと云ったら迚も辛抱が出来にくい所へ持つて来て、或日の事矢張り鼓の打ち方が気に入らないと言つて、舞台で二重から引き摺り下ろされたことがあつて、私はもう口惜しくつて口惜しくつて、一層の事おやじを殴って東京へ逃げ出して来やうと思つたこともありましたが、段々話を聞いて見ると、私の鼓の打ち方は只鼓の音を聞かせるために打つのだから出られないと云ふのです。

あの時の静御前は遊興に鼓を打つのでなく、鼓を打って忠信を呼び出そうと云ふのだから、只鼓を打つときとは心掛けが違ふので、先づ鼓のしらべを掛け直して、始めは薄く打っては様子を窺う心があつて、段々調子付いて来た所で本当の音色を打ち込まなければいけないと云はれて、毎晩毎晩おやじの前で鼓の打ち方の稽古をした時がありました。

その時におやじの言ひましたには、旅だと思って芸をおろそかにすると云ふ事は以っての外の事で、他日東京の舞台で立派にこの役を引受けなければならない身分だから、それで己がやかましく云ふのだ、しつかりと身を入れて演れと教えられました。」

これは栄三郎になってからの話です。

「本所の壽座へ出勤して『皿屋敷』のお菊を勤めた時にも、おやじは先代高島屋小団次から教はつた型をくはしくつ傳へて呉れましたが、其あらましだけ云ひますと、お菊が舞台へ来て、土俵を据えて責められる所で『もし』と云つて後ろ向きになつて、『おなさけで御座りまする』の所は、チヨボに溺んで一つ一つの形が変わらなければいけないと云ふのです。

しかしそれが又むづかしいので、どうしても右か左の肩を落とすか又は首で形を付けるより外にありませんが、其外に形をつけるので非常に苦心をしました。
其時親父の教へ方と云ふものは、先代の高島屋の演り方で、自分から工夫をさせるので一ト方ならない苦しみをしました。

それから皿の数を読む所で、一ッ二ッと云ひますと、オットそう云ふ読み方では始めから皿の九枚しか無いのが分かって居ると云ふ計りで、どうしろと云ふ事は教へて呉れませんでしたが、是も段々聞て見ると、はじめの一ッ二ッはサラサラと云つて皿を見て、皿から忠太の目を見るのです。
それから三ッと数えて次に四ッと云ひますが、此の数取りのうちは皿の方へ気を入れて居るので、決して口を開いてはいけないのです。

夫からお菊が五ッ迄を云つて了ふと、忠太の白で『待て待てもう跡は五枚だぞよ』と云はれ、一寸考えて六ッから七ッと聲が上がって言ひ、『やァーつ』はぐつと押へて締めて、『こォこのォッ』は震へて言ふと、鐵山が『シテ其跡は』と聞くので、腹の中で『はい』と返事をする心に會釋をして忠太の顔を見ると、忠太は済まして居るからハテなと思つて少し乗り出すやうになる。
ここが大變むづかしいので、フン、フンと一ッ半の息の間で、それにひつたり合せて忠太が『そりやもう無いぞよ』と箱を叩いて見せますが、此フン、フンの一ッ半と云う息が大苦しみです。

そんな工合に芝居の始まる前から開場中も毎晩稽古をしましたが、少しもおやじの気に入りませんで、おやじは千秋楽の前の日に見物に来て、いよいよ小言を聞きまして、千秋楽後のちの為になる事だからと云つて、二日間の稽古をしたのなどは随分珍らしい事でした。

しかしおやじが小團次に教はつたときの話を聞きますと、どうしてどうして私共が苦しんだやうなものではありません。毎日毎日稽古をして歸るのが九ッ(午前零時)過ぎになるので、おやじは餘り無理なことを云はれるやうに思つて、恨めしいやうな馬鹿馬鹿しいやうな考えで、一層高島屋を殺して大阪へ逃げやうと思つたこともあつたそうでしたが、跡で思へばそれが皆んないい役者にしてやらうと云う心切なので、其恩は忘れられないと云つて居りました」

九代目団十郎も子供時代、踊りの修行では責殺されはしないかと実父七代目団十郎が心配したと言われるほど、養父河原崎権之助の元で厳しい修行を受けていて、彼が丑之助時代の六代目に踊りを仕込む時には、自分の幼き日の話を持ち出してしきりに小言を言って鍛えています。

羽左衛門も同じように「一層の事役者を止めて(菊五郎と)伯父甥の縁を切つて了ふかとも思つたり、又小父さんを撲りつけて逃げ出そうかとも思つた位でした」というまで追い込まれる小言を喰っていますが、彼らが師匠を亡くし大成した後ではそれが薬になったと皆感謝していることからも、名優への道は逃げ出したくなるほどの修行が必要と言うわけなのでしょう。

写真は「劇と映画」昭和2年7月号。6月帝国劇場「與話情浮名横櫛」羽左衛門の伊東屋与三郎。梅幸の横櫛お富。


  • [72]
  • 梅と橘 その弐

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 9月 1日(木)00時30分37秒
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本名を寺島栄之助、名人梅壽菊五郎と呼ばれた三代目の孫にあたる尾上朝次郎(三朝。後に松助、さらに梅幸を名乗った女形)を父、興行師の娘で名古屋の名妓と謳われ芸者屋「信濃屋」の采配もした関戸貞子を母に、明治3年10月15日名古屋市伏見町で生まれました。

母貞子は関戸増太郎の孫娘とも(女形の事)、娘とも(名家実相録)言われており、増太郎が興行師として江戸に上り、名古屋に帰ってきた時の一座に朝次郎が加わっていて夫婦になったのですが、栄之助2歳の時朝次郎は亡くなり、母を「姉さん」と言わされ信濃屋の秘蔵っ子として10歳までは女姿で育てられます。
踊りや下方の稽古にも通わされていました。荒っぽい事は大嫌いで、至極大人しい性質だったようです。

何度か五代目菊五郎が名古屋へ巡業に来た時に浅次郎の子だと知って養子に望まれており(浅次郎は五代目とは従兄弟)、明治15年1月、菊五郎が左団次と名古屋橘座へ乗り込んだ舞台で「島鵆月白浪」の「鬼灯売市之介」を勤め、それは「市川栄之助」としての出演でした。(近代歌舞伎年表名古屋編第一巻)
1月13日からの橘座は「西南戦争記」「大盃智勇賜」「東土産開花夜噺(島鵆月白浪)」松助や菊之助、清十郎時代の源之助も同行。

栄之助は西川鯉之助という踊りの師匠のお浚いに頼まれ、明治10年8歳の新守座で西川栄之助を名乗り「五条橋」で牛若丸を勤めています。(名家実相録其九)
その後も度々お浚いや芝居で子役も頼まれていましたが、本人の弁によると表向き役者としてではなかったので、五代目と出演したこの時が初舞台になる、と言えるかもしれません。
これが尾上でなく、市川姓として出ているのが面白いところです。
また、舞踊は初代西川鯉三郎に習い新守座に出演したとしているものもありますが、どちらにしても舞踊の舞台です。

この1月21日の夜、橘座裏手の菱屋という宿から火が出て、燃広がる勢いだったのを、一座一統が駆けつけ消火に尽力したので類焼は出さないで済み、土地のものは東京の大人数が消防ゆえ早く鎮まりしと悦び居し由。
め組の喧嘩よろしく刺し子を羽織っていたか分かりませんが、五代目の陣頭指揮で役者衆が火事場で大活躍したのか…「扇舎閑話」には火事好きで刺子まで作っており、姿見で鉢巻ひとつでも気に入るように形良く結ぶ支度に一時間位掛けていたとありますから、この時はそんな拵えには構わず火消しに努めたのでしょう。
こういった逸話は役者や時代の雰囲気を感じさせてくれるところなので、昔の記録を見る時の楽しみでもあります。

跡興行は「島鵆月白浪」と「操三番叟」で、26日に打ち上げた後、一行は岐阜巡業に回り、2月15日岐阜末廣座で「音高美濃瀧津瀬」「千本桜」「慶安太平記」。

菊五郎・左団次は名古屋での二の替りとして2月24日から橘座で「千本桜」「島鵆月白浪」。この散切り物の評判は上々で、続きを望まれましたが堅く謝して断ったようです。
その後この一座は伊勢へ向かい、3月22日一身田常磐座で「千本桜」「大盃智勇賜」「東土産開花夜噺」。29日まで。

音羽屋の名古屋滞在中に養子話がまとまり、12歳の明治15年11月5日、世話人の三松という人と二人連れで五十三次25番目の日坂まで俥に乗り、あとは弥次喜多道中、東海道を歩いて上ったのは本人の希望だったそうです。
新富町へ到着は13日夕暮れ時の6時40分。時間まではっきり覚えているのですから、梅幸という人の細かさはかなりなものだったのでしょう。
実家の母と姉は汽船で上京したため、五代目宅には先に到着していました。姉(「名家実相録」ではそうなっているが「歌右衛門自伝」ではその事にはふれておらず)のお玉は後の五代目歌右衛門の妻女で、日本橋の豊田屋から玉江として出ていた芸妓。

明治18年1月千歳座の開場式が4日から7日まで四日間行われており、団菊左に加え芝翫(四代目)、秀調(二代目)、家橘らの豪華版で、もちろん竹松や福助も出演しています。左団次の翁・家橘の千歳・菊五郎の三番叟による「式三番叟」で幕開きとなりました。
古例としては明治4年守田座以来の「仕初め式」であり、出演者は皆一切古式の拵え。裃に髷の姿で、女形は紫帽子で振袖に裃、小さ刀の一本差し。本物の丁髷は芝翫ただ一人で他は鬘だったとあり、その古風さが想像できます。

栄之助はもう一人同じくして養子となった栄次郎と共に、菊五郎に手を引かれて女形の席に着き、団十郎から養子縁組みのお披露目をされました。
この仕初め式には竹松も養父家橘と共に舞台に上がっていて、団十郎の口上「吉例なれば一ツにらんで御覧に入れ升」との「にらみ」の後、子供の手踊りとして金太郎(七代目幸四郎)の皇帝、竹松の鶴、栄次郎の亀で「鶴亀」、他に「花傘」が出てています。
年代記ではその様子が記されていますから、少年期の二人を思い浮かべて何だか不思議な気分です。尤も梅幸の芸談「扇舎閑話」「女形のこと」「梅の下風」には出演者の拵えから段取りまでがもっと詳しく紹介されていますが。
大切には芝翫の工藤、福助(五代目歌右衛門)の大磯の虎、左団次の朝比奈、菊五郎の十郎、団十郎の五郎などで「曽我の対面」。

翌2月8日からの千歳座「水天宮利生深川」で五代目の筆売幸兵衛の妹娘お霜で出演していて(年代記では筆売幸兵衛の娘お霜)、これが六代目尾上梅幸の東京での初役とされています。

写真は「劇と映画」大正十五年4月号。3月大阪中座での「花街模様薊色縫」稲瀬川百本杭の場。梅幸の十六夜、羽左衛門の清心。
この黙阿弥劇は「大阪では初演と云ってい可い位に珍しいものであった」そうなので、かの地の人達も延壽太夫との「三絶」の舞台に酔いしれたことでしょう。


  • [71]
  • 梅と橘 その壱

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 8月27日(土)17時47分45秒
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十五代目羽左衛門を語るにおいて絶対外せないのが六代目尾上梅幸です。

明治から昭和初期まで活躍、羽左衛門の相方であり、五代目菊五郎の薫陶を受けた二人は従兄弟同士。
舞台でもそれ以外でも非常に仲が良く「魂の夫婦」とするべき関係で、長い歌舞伎の歴史の中でも夫婦役者としてこれほど結びつきの強い二人はないだろうと言われるほど切っても切れない間柄です。

帝劇の座頭(技芸委員長)であった梅幸は、歌舞伎座の五代目歌右衛門と並びその時代を代表する名女形でよく比較もされたのですが、歌右衛門は人物の大きさ、個性から来る役が抜きん出ていて、役者としてはある意味比較の出来ない存在。
歌右衛門は世話物より時代物、特に彼に当てた「淀君もの」は鉛毒で明治の中期以降足が悪くなっていた成駒屋を舞台にのせるため出された作品群で、歌右衛門の「大きさ」があってのものでしょう。

梅幸は時代物から世話物まで満遍なく演じており、多くの点で上々吉の役者で「近代女形の完成形」と言うのが相応しく、お富、お軽、十六夜、小紫、累、お夏、三千歳、小糸などは比類ないものです。
世話物だけでなく揚巻や八重垣姫、岩藤などの時代物でも(大成駒を別と考えれば)、まずこの人をもって極まったとしてもよいと聞かされていました。

それほどの役者でありながら「立役の後見の心にて勤めること」という五代目菊五郎の言葉通り、相方を立てる女形の本道を貫いたことが彼の偉大さだったと思います。
羽左衛門とコンビの数々の舞台が今なお「錦絵のよう」と語り草になっているのは、いかに二人の舞台が魅力に溢れているものだったか…そこにはお互い相方を本当に愛しているが故に醸し出される本物の「情味」があったのでしょう。

SP盤「與話情浮名横櫛」を聴けば、与三郎に対するお富の痛いほどの想いを感じることが出来るのも、心底相手に惚れているからこそであり、舞台で本当の深い情を表せたわけです。
それからして女形の最も本質的心得を持っていたのは六代目梅幸であり、二度と現れない役者と言われた羽左衛門との舞台は絶後の素晴らしさだったのだと思います。

六代目歌右衛門は六代目梅幸を、七代目梅幸は五代目歌右衛門を目標にしていたのは、各々の芸風からそれとなく感じられることで、名前から考えると面白い話です。

「成駒屋がいるから同じ小屋である限り、先代萩の政岡は出来ない」と帝劇の招きで移ったとされていますが、まさに政岡は事実上この時代に君臨した大成駒の当り役。歌舞伎座にいればこの役は歌右衛門に行くでしょう。
「政岡」は立ち役で言えば「由良之助」。難しいとされるが故に、立女形としてはやるべき役なので梅幸の気持ちも理解できるものです。
歌舞伎座に残った羽左衛門と別れる事は「生木を裂かれた」と言われ多くの好劇家を嘆かせました。離ればなれになってまで帝劇に移ったのも、彼が役者としての気骨を持っていたからに他ならないと思います。

著書「梅の下風」「女形の事」が収められた「女形の芸談」は、その内容の濃さが役者の芸談としては最上のものの一つで、一般の人よりも歌舞伎俳優にとってこの上ない指針となるでしょう。
常に養父五代目菊五郎からの教え、先輩役者からの伝えられたこととして書かれており、「そなたこなたに気配りをしていた」と言われたのが頷けますし、彼の性格を表しているが如く自らの体得した女形の心得から役のしどころ、拵えや所作の勘所、歴史や過去の名優たちの逸話までの、とにかく幅広くそして微に入り細を穿った記述には驚かされます。
本の中でも述べていますが、明らかに本職の後輩達に向かって伝えようという心算が伺える。この手のものでは屈指の名著です。

また「舞台之團十郎」や「五代目尾上菊五郎」、成駒屋三代の「魁玉歌右衛門」、「十五世市村羽左衛門舞臺寫眞集 名橘舞臺之面影」、「六代目尾上菊五郎」のような立派な写真集のない梅幸にとって、演劇界別冊「女形寫眞集」は貴重なものといえます。
印刷技術の違いすぎる平成になってからの印刷の上、載せられている写真に関しては上のものにも引けを取らない内容ですから梅幸も喜んでいると思います。出来ればもっと大きくし、たとうで被ってあげたい。
ただし他のものは全てコロタイプ印刷。グラビアやオフセットの味わいとは違いますからその心算で見ることになりますが、元のブロマイドが多いと思われる写真はモノクロ変換されていますし、スクリーン線数も申し分ないので見やすいです。

中ごろからのページは中性紙を使っているようですので、変色にも強いはず。舞台写真もふんだんに使われていて、大きく引き伸ばされているページなどはゾクリとするほど臨場感に溢れており、垂涎の写真ばかり。是非とも手元においておきたい写真集です。

紅梅や 咲くにつけても 遠慮勝

梅幸は俳句を七世其角堂永機(老鼠堂)に付いていたようで、これは彼の持句です。
古い雑誌のいろはかるた役者見立には、羽左衛門は「得手に帆」梅幸は「念には念」とそれぞれの性格を表す言葉が出ていた、と遠藤為春が語っています。なるほど。

写真は三十代後半と思われる六代目梅幸。玉三郎ではありません。
「立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出て来たのは、明治以後で、家橘・栄三郎のような美しい役者は今までなかった」と団十郎の弟子だった市川新十郎が語っていたそうです。


  • [70]
  • 里見弴氏寄贈市村羽左衛門関係書類一式

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 8月13日(土)00時24分1秒
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「羽左衛門伝説」執筆時の資料が発見されました。
明治大学の文芸学部で教鞭をとった時に、同室の教授に預けたとされていたもののようです。
明治大学図書館にマイクロフィルムと現物が所蔵されていて、フィルムの閲覧をし当時の本文にも出てくる資料が多数確認できました。

これは鎌倉文学館で資料をある教授に託したとの情報があると伺ったので、明治大学図書館に当りを付け探したところ出てきたわけです。

マイクロフィルムは三巻あり、里見弴直筆の原稿、政府関係者からル・ジャンドルに当てた奉書、吉野作造による「日本の恩人将軍李仙得」原稿、「羽左衛門伝説」連載時の新聞スクラップ集、関屋愛子からのものを含む大量の手紙やはがき等。
特筆すべきは関屋敏子直筆の「祖父将軍の事」と題されたル・ジャンドルに関する覚書が含まれており、これは貴重な家族の記録と言えるでしょう。

「やまと錦」という吾妻徳穂がアメリカで預かったル・ジャンドル遺品のリストも存在し、本を贈られたお礼の手紙には多数の演劇関係者の名前が見られました。
大谷竹次郎、花柳章太郎や水谷・伊志井の新派連、戸板康二、川口松太郎などは「おみき徳利」という題で家橘栄三郎時代の二人を書く予定と記していました。

時間が限られていたので全体の把握程度でしたが、本文にも出てくる資料が確認できて執筆時の様子が浮かんでくるような気がしました。
一番期待していた羽左衛門直筆の愛子への手紙は未確認。これは何処に行ってしまったのでしょう。
出来れば本物に触れて羽左の息吹を感じたかった。今回の資料と共に引き続き調査は続けるつもりです。


  • [69]
  • ル・ジャンドル家の人々 その拾

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 8月 5日(金)22時54分40秒
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羽左衛門を巡る人々の中でも血縁者との繋がりを取り上げたのはここに辿り着くためであり、作家にとって失礼に当るかも知れない要約的情報の出し方も必要不可欠だったからです。

本の中には膨大な資料の分析・考察が構築されていますから、あらすじ程度の内容ではこの作品には全く影響を及ぼさないはずですし、里見弴先生も文句は仰らないと信じています。
「肝心な」と内容的な意味も含めた注目を促し、後にはそこまでの苦労談を壊述しているこの章の真意を踏まえない限り(「羽左衛門伝説」以降でなければ)本当の「市村羽左衛門論」は書けないと思うのです。

里見先生は大好きな羽左衛門の論評を書かれなかった。しかし出生の秘密を解き明かした「羽左衛門伝説」で他の誰もが迫れなかった真の羽左衛門像を見事に浮かび上がらせるということを成し遂げ、戦後相次いで出された羽左衛門論に対する秘かな回答をしたのだと思っています。

戸板康二が羽左衛門はどのように「自分を養ふものを見つけていったのかといふ『秘密』を、僕は知りたいのである」と求めてやまなかったその秘密。
また折口信夫が「彼の寂しさに甘んじる心と、やるせなさをつきぬいて行く孤独に耐へる心とを見ることができると思ふ」と記した愁い。
それぞれに答えたのです、まさにその大本はここにあったのだと。

本文中では舞台上の羽左衛門ついては、父子の対面時に受けた「一途に天与の才能を展ばせ」という言葉がいつ頃からどんな具合に花咲き、実を結ばせて行ったかを「ほんのちょっぴり触れて置かう」として、明治33年11月歌舞伎座、五代目菊五郎の代役をした「國姓爺合戦」和藤内が出世の端緒となったということを紹介し、その後の羽左衛門襲名後から「あんまり芸が冴えて来て気味が悪い」と心配した爛熟期にふれています。
しかし身贔屓と思われることを避けたのか、控えめにも思える見開き程度に留めた、といった感じです。

親子が対面した時何を語り合ったかを他人が想像で描くことを「断じて断る」としている部分、里見先生がこの本の中でここまで感情を露にした文章は実は少ない。
本の性質上勤めて分析的であろうとしているので当然かもしれませんが、剥き出しの強い想いが垣間見えるのもこの部分を肝だと考えていたため、と思われます。

無論他にも感情を読むことのできる箇所はいくつもあり、羽左衛門の魅力を述べる件には思わず筆が走り、「フレーフレー、橘やア!」と書いていますからここだけとはいえませんが、尤もこの後には「ざまぁ見やがれ、こんちくしょう」と続けたいぐらいです。
それらを書いていたら、連載時の原稿が全く足りなくなっていたでしょうけれども。

弴さんの羽左衛門に対する想いには「恋する處女娘(おとめ)」の如く純真さが感じられますし、読んでいてこちらも爽やかないい気持ちにさせられるので彼の「市村羽左衛門論」も読んでみたかったとは思いますが、「そんなのあ、御免かふむるよ」と言うかも知れません。
考えてみると一言で最も的確な、これ以上はない羽左衛門評「天品」と語っているのですから、それで充分となるのでしょう。

この本は羽左衛門出生の秘密とル・ジャンドルの功績に加え、彼の内面にまで光を当てようという意図を持って書かれたことは明らかで、改めて里見弴という作家の力量を感じます。粋なやり方、と思わずにはいられません。
「おつなもんだね」羽左衛門もそう言っていると思います。
とにかく「羽左衛門伝説」は、考えていた以上に彼にとっての意欲作だったことに驚かされるばかりなのです。


  • [68]
  • ル・ジャンドル家の人々 その九

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 7月28日(木)17時04分36秒
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その後、明治30年に絲が録太郎と愛子に二人は兄妹と伝え、自らが母であることを打ち明けた後、ル・ジャンドルが「半日きりの父」として椿御殿での対面となるのですが、右に兄、左に妹を招き寄せ抱きしめながら述べたという「肝心な個所」とは次の通り。

「いかに如上の事情止むなかったにせよ、汝たち、なかにも汝…汝には辛く、気の毒な生ひ立ちをさせた。今後は、誰憚らぬ親子四人の一家を形造りたいは山々なれど、周囲の事情は依然もとのままゆえ如何ともし難い。
が、國のためには忠、私には貞、汝たちには恵み深い絲さん、こんな立派な方を母として生まれたことに、汝たちは感謝と同時に誇りをもつべきだ。
生まれし子を刺し、みづからも死なんとの決心を翻して、汝を人手に渡したにも、並々ならぬ苦慮の存するところ、その察しもつかず、假にも怨みに思ふやうなら、人の皮着た畜生ぞや。
さて、このあとは、録太郎よ、汝、生涯の心得として申し聞かせたい義があるが…」

怪しげな日本語で意味が通らなかったり、聞き損じがあってはならないと生国の言葉で述べるのを通弁に翻訳させ、ここの[53]に載せた「神の心のままに」という教訓を自ら語り聞かせることとなりなす。
絲の歌が3つ載せられていましたが、その中のひとつ。

花のおも見入らせらるるまなざしに なさけあふるる露もみえつつ

親子四人の水入らずは夕刻までの半日、その後は通弁が抜け、「御意のばあや」と呼ばれた愛子の付人いくが同行し、帝国ホテルでの会食のため馬車を連ねて移動しましたが、録太郎は人目をはばかって遠慮となりました。
お抱えの人力で先に椿御殿を後にした紋付羽織袴の録太郎は、棒立ちの手放しでオイオイ泣き出したという。

この時がル・ジャンドル最後の来日となり、愛子も兄と父の顔合わせは一度だけと信じきっていたところ、「更けて、夜ごとにみどりの来ること、噂の種となりはせぬかと心を痛める」という絲の書付が見つかり、在京中父子二人が密かに椿御殿で落ち合っていたとの推測はほぼ誤りがなさそうだと弴さん。
「みどり」とは録太郎の「録」の字を「緑」に変えた隠名としたもの。

彼らがどんなことを語り合ったのか「小説、芝居、映画などの場面に、……出来もしまいが、ここだけは使はせたくない、いや、断じて断る」とあるように、想像で語るのは憚られます。
ただ羽左衛門にとってこの父との面会が、彼の人生にとっての大いなる転換点となったことは間違いないでしょう。
明治大帝が寵愛し日本国にとっての恩人であるル・ジャンドルを父とし、将軍家に繋がる血筋である母を持つことの自覚は、彼の心にコペルニクス的転換と言ってもいい変化を促したのではないかと思います。

「俺なんざァ、無頼漢と淫売婦とのなかに出来た子だといはれてよ、おまけに犬猫の仔でも捨てるやうに、役者のうちにやられた揚句にやァ、月の二十五日、おんなじことばかり繰り返してるんだぜ。あんまりちげえがひどすぎらアな」

洒落も含んだつもりだったのでしょうが、兄妹と知ってから口癖のように愛ちゃんはいいなぁ、の後に続けて洩らしていた言葉も、父との面会後はふっつりと。
この時24歳の録太郎の中にはその前とは決定的に違う何かが芽生え、その後の彼の人生に大きく影響していったに違いありません。

市村の戸主となった瞬間から圧し掛かっていた歴代の借財を思い、芸格ののびやかだった羽左衛門の青年期における心の裏面を読み取ろうとした折口信夫は「彼の身の大きさだけに掩うてゐる翳を負うて、身じろがなければならなかった」と述べていますが、或いは明治30年の後半まではそうだったのかもしれません。
しかし「神の寵児」である羽左衛門の魂には、抗えない境遇における暗い重荷も傷をつけることは出来なかった。その悲しみや孤独感には侵されない強さと弾性ある心を持ち合わせていたのでしょう。

明るく影のないさっぱりとした舞台、「苦労のない天成そのままの芸」と評された羽左衛門が「直侍や與右衛門の悲しみと悶えをしみじみと現しながら花やかさ、人生の美しさを感じさせ」愁いを漂わせたのも、実の親の愛を知らず次々と人手に渡され、浮き草のように育つほか道はなかった悲哀を知っているからでもあり、ただただ単純に無邪気ではなかったのです。
全てを腹に収めて、尚且つあたりを吹き払う澄み切った美の輝き。彼が舞台に出て来ると急に明るくなったと見た人が「実感」したものは、羽左衛門の陽なる魂の光芒に他ならなかった。
十七代目羽左衛門が「普通の人間じゃありませんね」と言っていたことを思い出すのですが、普通ならばどこか影が拭えず、舞台でもそれが出ていたはず。やはり並の人ではなかったのだと思います。

彼は父と会した時、自らの立つ真っ暗な舞台に、突如天から降り注いだスポットライトに浮かび上がる眩いばかりの己の姿を知ったのでしょう。
さらにこの終生洩らさなかった秘密が余人には敵わぬ深みと奥行き、そして突き抜けた自信と動じない心を彼に与える事になるとは……

「お釈迦様でも気が付くめぇ」。彼の台詞が耳に聞こえてくるようです。

何処の馬の骨とも分からない自出と思っていたところが、類稀なる血筋と知った時の彼の心境に思いを馳せることは十五代目市村羽左衛門の人となりを、そしてその芸を語る上でも重要なことと考えます。
この視点を持たない限り羽左衛門襲名の披露句である「橘や 細い幹でも 十五代」の本意を読むことは出来ないと思います。

奇しくも折口さんの「市村羽左衛門論」では明治31年になると「掌の凍つた涙のとける如く、彼に柔らかな春の光りがさして来た」とあるように、戸板さんが「名優」で「急に吹っ切れたのは」として明治31年1月の宮戸座を年代記や岡鬼太郎の評を引き合いに出し飛躍と指摘しているように、状況の変化や心の脱皮による芸の昇華が舞台でも認められるようになっていたのではないでしょうか。

「沓手鳥孤城落月」秀頼の高貴さ、「勧進帳」富樫や「先代萩」勝元の品位、「桐一葉」木村長門守の清く潔い印象などは言うに及ばず、「小袖曾我薊色縫」鬼薊の清吉のような小悪党の役でも羽左衛門にはゲスになり過ぎない格があったことが、SP盤で聴いてさえ感じるのは、もって生まれた血筋と自出に対する自負が滲み出ており、生き生きとした心の躍動感が伝わってくるからだと思います。
堀内敬三は「あの声とあのセリフ廻しは、陰惨も苦悩も敗滅も表せるけれど、その背後から救いの光がさしている。あの声は生のよろこびの声である」と述べていて、思わず膝を打ちたくなる言葉なのですが、それらの魅力が誰にも真似ができなかったことは…当然なのかもしれません。

里見先生が「羽左衛門伝説」で母子兄妹を初めて明かしたした時よりも、父子の名のり合いの状況を見えるが如く描写しているのも、彼がこの場面を特に重要と考えていたと読み取っています。

写真は安部豊編「舞臺のおもかげ 市村羽左衛門」
木村荘八画「羽左衛門伝説」明治大学図書館所蔵 [里見弴氏寄贈市村羽左衛門関係書類一式] 昭和29年毎日新聞夕刊


  • [67]
  • ル・ジャンドル家の人々 その八

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 7月22日(金)15時36分7秒
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「伯父と母は顔や骨格、手の造りまでそっくりでしたが、目だけは違っていました」

娘の野口喜美子さんが語っていたように、二人の目の違いは残された写真を見ると「なるほど」と思います。
ここの[15]で使った愛子の写真は眼鏡越しに正面からの撮影の為もあるのか、目に関してそれほど強く西洋人的とは感じず、羽左衛門とのあまりのそっくりさに驚かされるのですが、他の写真からは二人の違いを感じる特徴があります。

「伯父が祖母と似て日本人的だったのに比べ、母の目は祖父の血が強く出ていたのだと思います。」

里見弴は羽左衛門とそっくりだった愛子の手を「是非握らせて欲しい」と言って困らせたのですが、彼女は最後には彼の想いの強さに負けて手を取らせたそうです。
喜美子さんとご一緒した時、足元の悪さから手を取って歩いたことがあったのはそれを聞いていたからで、間違いなく羽左衛門との血の繋がりを持った彼女の手を握りたかった事も事実です。
まだお元気でしっかりした歩みだった喜美子さんからは「大丈夫」と言われましたが、「是非」と手を取ると顔を見合わせ笑いながらそれを許していただけたのは、こちらの気持ちが分かったのか「よほど市村のことが好きなんですね」と笑っていました。半分呆れていたのかもしれません。

さてその愛子を育てた両親の人となりや考え方、一家の矜持はどのようなものだったのか。

結婚後、福島・大隈・陸奥の三人が「時世もがらりと変って了つた今日のことゆゑ、一度そなたから名乗り出て、お目にかかつて置いたらどうか」と春嶽公の嗣子との面会を勧めた時の絲の言葉。

「いかほど立派な御身分でも、一旦捨てられた私からは縁なき他人。養ひ親とは申せ、池田兵衛、とみこそは私の両親と心得をります。…いまさら名乗つて出ましたとて、先方様にはご迷惑…心密かに誇りと致す尊き血統に生まれし身も皇國(みくに)のためとの御教訓に従ひ、外國(とつくに)のお方様に、妻として仕へ傅きは致しますけれど…大和魂を以って忠を貫き、婦徳に従って貞節を完うした上からは、もとより皇國のおんため、良人のために捧げ盡せし身の、なに惜しみませう」

結婚後お役目を果たした後の覚悟を伝え、それには明治政府の利け者三人も暗涙を呑み込んで、承知したとあります。
絲の自戒として書き留めたものが載せられていますから、ここでもそのまま写し取ってみましょう。

人に対するには慎ましやかにして、偽らぬ言語たれ。
人の貧しきを卑しめず、高貴たりとも媚びず、礼は失はず。
数万の劣しき富は尊からず、偽りなき真心こそ尊しとす。
心を平らかにもし、かつ和やかにす。
休む、楽しむ、ほどほどにものをする、これぞ医師をたよらずして健やかなるべき者。
忠孝の志あらぬは人にして人にあらず。
おのれを愛するほどに人を愛せ。
言語は惜しむべし、座興たりとも偽りの語草は卑しむ、慎しむ事。
言葉多きは過失の基。
人の妻たらば、恋人たれ、友たれ、保婦たれ。
愛を以っての贈り物は些少なりとも高大なり。
人を怒らず、愛の心を以って答へよ。
愛の心はすべての人に及ぼす。
人の話は終わるまで静かに聞け。
人の語り草となること多き宿世の身なれば、天と仰ぐ良人の不在中は一入殿方にまみえず、男禁制の心を以って過ごす事とせり。

為さば成るなさねばならず何事も 成らぬは人の為さぬなりけり

化粧の間や自室に張っていた古歌の一つが添えられてた、とあります。
そこで使われている「愛」にはキリスト教的な意味も含まれているようですから、ル・ジャンドルからの教訓が多分に含まれているでしょう。
これらを以ってル・ジャンドル家の矜持としてもよいのではないかと思っています。
そのまま現代の我々が心に留めておくべき内容ですが、一族全員がこれを貫き通す一生を送ったことが尊い。(唯一つ、最初の「偽らぬ」に反するとも言える、羽左衛門が二人から生まれたという秘密を隠し通した事以外は…これも「羽左衛門伝説」が出るまでは、僅かな例外の他各人が守ったのですから大したもの、と言えるでしょう)

羽左衛門が持っていた「清く潔い」という印象は、父からの教示を生涯守り通したからだったに違いありません。愛子はこのような人々の中で育てられたのですから、その娘喜美子さんが気高くも謙虚で奥床しかったことが頷けます。

「をじ様」と呼んでいた副島が語った「国を愛する心は、世界各国大差ないにしても、何時のお父様のは、我が国古来の武士道の精神で、日本人のあれほど忠義な人、えらい方にはまだ一編もお目にかかつたことがない」という言葉に、母よりも父を好いていた愛子は、ぞくぞくするほど嬉しかったという。
朝鮮に渡るにあたり母娘共に連れ行くことを望んだル・ジャンドルでしたが、絲が別れ難きは山々なれど「どうぞ私には、一生外国の土を踏まさないでくださいまし」と拒んだため、副島と大隈らの立会いの下愛子自身に留まるか否かを問うて、彼女に選択を迫ります。

「優しいうちにも凛呼として、気の強い母様のことゆゑ、きつと自害なさるに違ひない。…母様の許に居残らなければ」

千々に乱れた思案の末、母と共に日本へ留まる事となります。立合いの副島らに絲と愛子、留守中のことを託してル・ジャンドルは一人朝鮮へと旅立って行くこととなりました。

木村荘八画「羽左衛門伝説」明治大学図書館所蔵 [里見弴氏寄贈市村羽左衛門関係書類一式] 昭和29年毎日新聞夕刊


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  • ル・ジャンドル家の人々 その七

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 7月10日(日)18時24分51秒
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ここでは十五代目市村羽左衛門に関して、直接の関係者からの話や残された資料を元にした情報を記録しているのですが、彼に関する逸話・書籍等にある程度通暁していることを暗黙の前提としていて、他で知ることのできる内容については詳しく説明していない場合があります。
そのため話の理解が難しく補足として必要があると判断した場合、その都度追加していく心算でいます。

関屋愛子や敏子に関しては大まかな内容しか載せておらず、掴み辛くなっていると分かりましたので、「ル・ジャンドル家の人々」のその後として続けることにします。

「羽左衛門伝説」は関屋愛子自身からの話と記録・資料から羽左衛門の出生の秘密に迫っており、世間で言われていたもう一方の説も検証されていて、この本の出版以降、羽左衛門混血説が定説とされ、「岩波西洋人名辞典」にも記述される事となったようです。
里見弴以外にはなしえなかった考察と情報収集、それらはやはり愛子が居て初めて可能だった事でしょう。
妹・愛子はこれ以上に生い立ちが書かれているものはなく、本人が里見弴に語った証言と資料からなるこの本がなければ、彼女のことはほとんど分からなかったはずです。

折口信夫の「市村羽左衛門論」が襲名をもって途切れているのは、羽左衛門の出生に纏わる巷説を東京の故老達が否定したためだそうですが、弴さんの場合愛子と直接遣り取りして取材している事が決定的な違いで、この貴重資料の重要性が際立ちます。
彼女の部分を抜粋・再編といった形で要約してみることにします。

ル・ジャンドルと絲の間には羽左衛門のすぐ下に、夭折した「愛」という女の子がいました。
「愛子」が生まれたのは長女が亡くなって三年後と書かれていますから、一人目のあいちゃんは明治11年に生まれ、間もなく亡くなったのでしょう。
明治14年8月23日が誕生である愛子本人の弁が「私の誕生日もほんとうかどうかわかりません」とあるように、長女の死亡届もしないで済んだ時代だったようです。

鶴見総持寺のル・ジャンドル家の墓碑には、長女「愛」の名はありませんでした。後の子を生まれ代わりとする考えは今でもありますから、次女「愛子」をル・ジャンドルと絲はそうあって欲しいと願っていたのでしょう。(戸籍上は愛子も「関屋愛」のようである)

ル・ジャンドル邸は本邸とは別に千坪ほどの地所があり(今の小石川植物園の近く)、合わせて3千坪の広大な敷地でした。
ここで茶寮を経営させていた庭男の庄吉なるものの妻・お七の従姉妹(当時25歳)と、お七の姪に当る女性が授乳中だったので産月になると二人を雇い入れて愛子の乳母に、ル・ジャンドル家の裁縫女として勤めていた鳴川いくをお守り役として26歳まで付き切りにさせています。

アメリカに渡る前に生国フランスで結婚したとされていたル・ジャンドルですが、米国在住の人からの投書で女流作家 Dinah Maria Mulock の姉妹 Miss Mulock とだけ分かっている女性がお相手で、W.C.Le Gendreという当時銀行の副支配人を勤めていた男子のいることが判明。
どうやら結婚は失敗だったようで、モアイに赴任以後は帰国していない模様。

奇異なる縁で極東の日本に留まることとなり、将軍家の血を引く者を妻とし、長男(正式には次男)を留守の間に顔も見ないうちから他家に出され、長女夭折の三年後、自らは51歳となっていたル・ジャンドルの第三子妊娠と聞いた喜びと心配は容易に察しがつくだろう、と弴さんが述べている通り、乳母二人に加え附き人まで手配した上、いざといえば順天堂の佐藤博士がすぐ駆けつけるという「万全の用意」からも彼の心中が想像できるというものです。

その8月23日に愛子が無事生まれた時、産室へは行かなかったが「早く抱いて来て見せろ」の催促をし、ひと目見るなり「私の妹にそっくりです」、ル・ジャンドルの満悦は言語に絶したとの記述になっていますから、よほど嬉しかったのでしょう。

3日目の晩、俗に「三目(みつめ)」には、産室とは遠く隔てた表座敷にあたるル・ジャンドルの寝室を含めた三間ぶっ通しに、提燈や万国旗・花を飾り立て大御馳走とシャンペンの乱れ打ち、大勢の友人知己と祝いを盛大に上げています。
愛子は掌中の珠、戸籍上は池田ではありましたがル・ジャンドル家にとっての跡取り娘であり、それこそ「蝶よ花よ」と育てられ、「さながら花の開くを待つ心地だつたろう」とあるが如く幸せな子供時代を過ごしたようです。

ただ数えの二つの冬、今日のジフテリアに当る馬脾風に罹り命を落としかけていて、医者も手の施しようがなかったところ、ル・ジャンドルが所持していたある薬を飲ませて救っており、二人の担当医が辞退するほどの劇薬だったようで、入院せず屋敷の一室で佐藤・八十島の両名を順天堂から交代で来診させる状況でなかったら出来なかったことでしょう。
その時の影響なのかは分かりませんが、愛子は体が弱かったようです。

母 絲が遊芸好きだったため四つの時から踊り・長唄・琴などを習わされたのですが、それらがあまり好きでなかったため近くの跡見女学校へ上げてくれとしきりに願い、六歳で入学しましたが病弱のため、努めて通いだしたのは二年後のこと。
9歳になっっていたある日の父娘の会話から。

「汝(そなた)三十一文字の歌が詠めるか」
「はい、お師匠様に教えて頂いて居ります」当時は女学校創設の跡見花蹊女史をみなそう呼んでいたそうです。
「おお、さようか。毎度私が、汝の母に、一日に一度は幼心になるやう申し聞かせてゐること、汝もご承知ののとほりだが、その幼心を歌に詠んでごらんなさい」

しろたへの白きがままの心もて けがれにそまじ年はふるとも

穢れを知らない子供の心そのものが表されています。そこには両親の想いが投影されていて、語って聞かせた言葉が素直に詠まれてているのでしょう。
兄・羽左衛門を人手に渡してしまった後悔と引け目の反動もあったのか、愛子は有らん限りの愛情を注がれて育ったことが伺われます。

記憶が生じて以来、父母は同じ屋根の下に暮らしていたというところの「椿御殿」の見取り図は、愛子の記憶から弴さんが起こし、木村壮八が浄写したもの。(羽左衛門伝説)
旧表門側の玄関から入ってすぐの二階に、大正時代になって静江とともに一年近く暮らした二間が確認できます。


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  • 四人同盟 その弐

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 6月21日(火)22時10分42秒
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五代目芝翫・後の五代目歌右衛門は人物としては傑出した存在で、年長の役者からしても冒しがたい風格を若い時分から持っており、明治末から昭和初期まで歌舞伎界に君臨した大立者。「天皇」と言われるほどの存在でした。

団十郎は体調が優れずとは言え未だ健在で、その時点で没後のことを仲間内(特に成田屋とは近い者達)で考えていたとしてもあからさまに口にしていたとは思えず(同盟結成時に彼の具合の心配や後々の事を想定した話は出たでしょうが)、芝翫をして危機感を持たざるを得なかったほど井上から目の敵とされていたのだと思います。

密約としていたこの同盟は何処からともなく外部に洩れてしまいますが、四人の中からの漏洩とは考えにくく、役場での証書の調印で今をときめく若手の人気花形が四人も揃っていたのですから、人の口に戸は立てられぬ、とはこの事。出所はその辺りからではないかと推測しています。

田村成義編「続々歌舞伎年代記 乾」や木村錦花著「近世劇壇史」によると、高麗蔵はこの同盟を知った団十郎に叱責されたため、先に脱落。
それには芝翫が怒って梅幸と家橘を誘い、田村成義を世話人として大阪に向かうこととなったとありますが、井上は「行きたければ勝手に行けば宜しいでせう」と強気を装う一方で、梅幸を北海道巡業の八百蔵の一座に加わるよう説得。同盟から二人が脱落となりました。
井上の芝翫外しがはっきりしてきます。

「秋になったら羽左衛門を襲名させてやろうという事になっているのに、妙な策動をしたら為にならねえ。お目見えには『鈴ヶ森』の権八をやらせ、俺が長兵衛で口上を述べてやろうと思っていた」

家橘には団十郎が誘惑とも聴こえる説得がされ、「大阪には行くな」とまでは口にしなかったようですが、それとなく話はされたのでしょう。
家橘としては可愛がってもらっている親戚の小父さん、団十郎に反旗を翻すことは難しく、相方で自分の半身のような梅幸もすでに離れているのですし、芝翫の防衛策だった側面が強い「四人同盟」に二人になってまで固執するのは無理な話だと思います。
まして家代々の「羽左衛門」襲名に影響するとなれば考え直すのも当然、流れは既に変わっていたのです。

結局芝翫は完全に孤立してしまい憤慨。
「約束に反き、友情を缺くやうな同業者と、将来倶に舞台へ立つ事は出来ない」
この上は一身のほかに味方はない、死物狂いでやると言い出すと田村が宥めて井上と交渉、家橘は襲名が控えているので一興行だけなら大阪に行くのは構わないと承認させます。

他の同盟者の切り崩しのやり口は、田村共々興行師的側面が強く浮かび上がってくるようです。
深読みすると、井上ら興行主側からすれば十二代目守田勘彌という天才的興行感覚を持った存在がつい先頃まで影響力をふるっていた記憶も新しく、大物であることが誰でもわかる芝翫に団菊亡き後君臨されてはやり難いと考えていたのでは…。

この頃の芝翫が同世代の役者の上に立とうとする野心を持っていたと書かれたものもありますが、積極的に何か行動したとは思えません。
八百蔵や我當(十一代目仁左衛門)とのちょっとした鞘当ては、役者として彼の立場からすれば当然なこと。
録三郎さんが言っていたことからも、相対するとごく自然に頭を下げざるを得ない人物としての器の大きさが、興行側の扱い辛さとして伝わったのではないかと思います。
それほど芝翫は単なる役者を超えた影響力を持つ存在、として映っていたのかもしれません。

芝翫・松助・家橘らは8月8日に大阪角座へ出演することとなります。芝翫は同盟を抜けた面々には大変な怒りを持っていて、一座として同じ舞台に出るからには当然その前に顔を合わせるのですが、孤立状態となった時は俳優鑑札も返上し「廃業」も考えた彼の心中はいかばかりだったでしょう。
友達でもあり8歳年下の後輩家橘に対しては、怒鳴り散らしてやろうと考えていたとしても不思議ではありません。

稽古は芝翫宅で行われることとなり、家橘は顔を合わせるなり構える様子もなく、こう言ったそうです。

「やア、兄さん、切腹切腹」

それには憤懣やるかたない芝翫も思わず笑顔になってしまい、憤りもどこへやら、そのまま仲直りとなって大阪へ旅立って行く事になりました。
怒る事が出来なくなるような彼の意表をつく挨拶に毒気を抜かれた上、その愛嬌には勝てず、後に「天皇」「閣下」と呼ばれた歌右衛門もお手上げだった訳。
全く憎めないと言うか何と言うか、敵も味方もやられてしまう羽左衛門の独特な魅力は、怒り心頭の相手の心をも解してしまうものだったのです。

その大阪角座は27日までの二十日間、「雲雀山古蹟松樹」で芝翫の吉備大臣・豊成息女中将姫、羽左衛門の夷の押勝。「橘獅子」で羽左衛門の狂言師橘采女・獅子の精。「邯鄲軒端籠」で芝翫の中万字の玉菊・旅の女お種・中万字女房おかん。「與話情浮名横櫛」で羽左衛門の与三郎と芝翫のお富。「女鳴神」で芝翫の鳴神尼実は松永息女泊瀬、羽左衛門の佐久間玄蕃盛政。(近代歌舞伎年表大阪編)
こういう時ですから尚更この二人の源氏店は観たかったと思います。この後芝翫は残りましたが、この興行だけで家橘のみ帰京しました。

証書を交わし違反金まで決めた「同盟」でしたが、その効力が発動した記録は残っていませんし、他の二人に関しても物言いなしに終わったようです。芝翫の怒りは羽左の一言で蒸発してしまったのでしょう。
この「市村式」の底抜けな愛嬌には、里見弴も言及していて「人間羽左衛門の身辺に漂ふ香気」とあり、「羽左衛門伝説」でこの件の文章を書いている時に自然と浮かんでいたであろう彼のニヤケ顔が想像されます。里見弴曰く、

「憎々しいまでに困ったものだ。」

写真は明治43年4月歌舞伎座 二番目狂言「雪夕入谷畦道」梅幸の三千歳、羽左衛門の直次郎。
家橘時代の写真が極端に少なく、手持ちでここに相応しいのはこの頃のものしか出せるカットがないので、二人揃った極め付きのこれを。
芝翫の「女暫」は明治40年1月歌舞伎座。この時羽左衛門は轟坊震斎。井上が退陣し大河内輝剛へと経営陣が一新した歌舞伎座で「芝翫は座頭たることを天下に誇示した」とあり、歌舞伎座はまるで生き返ったようだと伝えられています。
高麗蔵の弁慶は明治40年4月歌舞伎座での「勧進帳」。富樫はもちろん羽左衛門。七代目幸四郎が生涯1600回ほど勤める弁慶は明治39年6月歌舞伎座が初演。その時は八百蔵の富樫に、訥升の義経。
「舞臺之華」演芸画報社

この芝翫の立派さといい、高麗蔵の凛々しさ、羽左と梅幸の瑞瑞しさは好きな人には堪えられないでしょう。それぞれの撮影時には芝翫41歳、高麗蔵37歳、梅幸40歳、羽左衛門36歳。
写真からは皆若くても風格すら感じられますから、各人のはまり役だった事が伝わってきます。

東京では四人を中心とし、さらに八百蔵・左団次・菊五郎・吉右衛門(合わせて八天下と呼ぶ場合がある)らによって大正・昭和初期の歌舞伎は回っていくのですが、その他にも宗十郎・仁左衛門・三津五郎/勘彌兄妹・源之助・段四郎/猿之助親子などなど、綺羅星の如く、と言われたように名優達が鎬を削ったいい時代だったのでしょう。


  • [64]
  • 四人同盟 その壱

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 6月17日(金)18時01分31秒
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九代目団十郎がまだ健在の頃、明治36年のことですが、羽左衛門は五代目歌右衛門や六代目梅幸、七代目幸四郎と同盟をつくっていたことがあります。
この年の3月に改名した梅幸以外は前名で、羽左衛門は家橘、歌右衛門は芝翫、幸四郎は高麗蔵でした。

明治36年5月歌舞伎座は9日初日で「春日局」「素襖落」が出ていて、団十郎が春日局・徳川家康。家橘は堀丹後守・徳川秀忠・老女高円を勤めています。

福地桜地痴作の「春日局」は具合が悪く動けない団十郎のためかなり書き換えのもので、「男女の区別も付かない」など後に「劇聖」と謳われた名優に劇評は厳しかったようです。
これは酷な話で、病後の団十郎には気の毒としか言えず、今ではどんな酷い芝居でも、こんな劇評は書けないでしょう。書いたら即干される。
染五郎は二番目の「素襖落」で八代目高麗蔵を襲名。団十郎が唯一人披露口上を述べていて、中位の入りで25日間の興行。結局これが成田屋最後の舞台となりました。

この時の歌舞伎座には芝翫も出演していて、同気倶楽部の夫人たちが組織した保育会の幹事(清浦奎吾子爵/板垣退助 両夫人)から「女囚携帯乳兒保育會寄附慈善演劇」の依頼を受けます。
保育会は女囚の乳呑み児を預かって育てる慈善団体で、歌舞伎座の井上竹次郎に相談しても話が進まないので芝翫への直接交渉となった模様。
保育会からは「劇場は歌舞伎座へ交渉して既に承諾を得て居る」という話だったと歌右衛門は語っています。

自分に相談なく引き受けたことが井上には面白くなかったのでしょう。
団十郎へ「あなたを出し抜いて除け者にしようとしている」と吹き込み、一方慈善興業には「三升会」(団十郎門下だけで作られた)の連中が参加していたのに高麗蔵だけであると弟子たちは師匠に文句を言ったようで、それには成田屋も怒っている、と聞いた芝翫は皆を誘い築地へ申し開きに行くことになります。

「その事を聞いた。なぜその前に話してくれなかった」
「一体慈善興業ぐらいの事に小父さんまで煩わさずに済ましたいと思います。いつまでも小父さんが出なければ慈善興業が出来ぬといふやうなことでは済まない。なるべく小父さんの体の休まるやすまるようにしたいといふのが私共の主義であります。それに興行主の今までのやり方がこれこれだから、この際に改めたい考へであります。」
「それならやってくれ」

団十郎は諒解しました。「これこれ」とは「いつも慈善興業といえば、われわれ俳優には何時も何の相談もなく、しかもわれわれは慈善のためだとあつて、言わるるままの礼金で働いて居るのに、興行主は懐ろ手して儲けて居る」という状況のこと。
芝翫の考えは筋が通っていたし、団十郎も興行側のやり方には考える処があったのかもしれません。

芝翫への保育会からの直接交渉による慈善興業開催については、伊原青々園の「団菊以後」で歌舞伎座はそれ以前に後藤猛太郎伯爵から申し込みを受けたが、芝翫らが羽衣座出演のため興行はできないと断っていて、直接談判により劇場側は鼻を明かされたとありますが、保育会の劇場借受が決まっていたのは何故なのか疑問に思うところです。
(井上の姉雪子は後藤象二郎夫人。芸者だったが前妻の死後、岩崎弥太郎の養妹として象二郎に嫁ぐ。猛太郎伯からは義理の母)

流れからすると体調不振の団十郎出演が無理だと踏んだ井上竹次郎が、採算が取れるのか読めなかったので断ったと考えたほうが辻褄が合うような気がします。
劇場側としては芝居を打っていない時に借り上げてもらえる事は当然好ましく、貸し出したからには先方でどう使おうと自由ですが、この場合、同気倶楽部を通じた政治的介入により歌舞伎座での慈善興業のための貸し出しは断れなかったとみる方が自然で、保育会主催では興行主の役得も期待できない、と考えていたのでは…。この辺りは史料によって違いがあるので難しいところです。

歌舞伎座での慈善興業ではありましたが、井上を外したことから劇場の奥役は上からの申付けで道具立ての手配はできないとなりました。

「吾々幹部の者は無給で出勤するけれど、慈善興業だからといって、下役の給金に変わりはない。むしろ従来よりも増してやる積もりである」

芝翫が衣装方や鬘、小道具などの担当と直接交渉し、「利益と見る分は寄付として貰いたい」、皆は喜んで承知したとあります。

明治36年6月、芝翫は8日初日で25日まで横浜羽衣座。梅幸と家橘もこれに加わっていますが、5月23日より東京座「塩原太助一代記」「時鳥侠客御所染」で家橘は浅間巴之丞・御所五郎蔵、梅幸は愛妾時鳥・傾城さつきを勤めていますので、6月8日からは横浜へは掛持ちしていたか、東京座へは7日までの出演。
「一番目は猿之助の塩原太助二番目は家橘の御所の五郎蔵これが利きて上景気なりき」と年代記にはあり、短期出演または東京座が短期興行だったのは考えにくい。
鉄道が出来てからは五代目菊五郎らも、それまでは不可能だった東京-横浜へ掛持ちしていますから、この二人もそうしたのでしょう。

6月24日から歌舞伎座で午後1時より開場(歌右衛門自伝では26日)、保育会慈善興業は催され、面子は四人同盟と訥升(七代目宗十郎)・菊五郎(六代目)ら若手。

「先代萩」御殿竹之間の場・奥御殿飯焚の場・床下の場
芝翫:政岡 梅幸:沖の井 高麗蔵:八汐・仁木 家橘:松島 菊五郎:男之助
別資料の記述から男之助は家橘が勤めたとありますから、日替わりだったのかも知れません。

「夜討曽我狩場曙」工藤狩屋討入の場・狩場問答の場
家橘は五郎 梅幸:十郎 芝翫:大磯の虎 高麗蔵:仁田忠常 菊五郎:御所五郎丸

「紅葉狩」梅幸:更科姫 家橘:維茂 栄三郎:山神 菊五郎:従者右京

「保育会」市ヶ谷監獄就役の場・乳児保育請渡の場・保育会祝宴会の場
芝翫:保育会委員貴婦人某(板垣夫人) 梅幸:女囚小林まつ 家橘:第一課長
松助:女囚奥田いわ 高麗蔵:典獄某
賛成員山本栄次郎:芝翫 同寺島栄之助:梅幸 同市村録太郎:家橘 同藤間金太郎:高麗蔵 同寺島孝三:菊五郎 同寺島英造:栄三郎 等(番付による)
監獄の事を描いた新作物。女囚が産児を世話をする場面があったので、四人同盟の面子と訥升・菊五郎らと市ヶ谷にあった監獄に見学に行っています。
配役のとおり、主立った連中が本名の本人役で出演しているのが面白い(菊五郎の孝三は誤植)。

保育会の手配りもあって、芝居は大入りで一日日延べし(6日間)、純益が三万円の好成績。(歌右衛門自伝)
井上竹次郎は予想以上の大当りだったために余計面白くなく、芝翫とは元々そりが合わないところへこの一件で確執を持つに至ったようです。

井上の圧力に屈っしないため、芝翫は梅幸・家橘・高麗蔵と今後は心を合わせ一団となって行動しようと誓い合います。
他座へ出る時は違約金二萬円、期限は二十年。山内秀三郎の立合いで証書も交わされました。
それには「年長の指揮に従ふ」との文言が入っていて、今でも残って居る、とは歌右衛門。

これが「四人同盟」とされているものです。
それ以前に八百蔵(後の中車)が芝翫を除いた三人と同盟を組んでいた事がありましたが、口答で申し合わせただけの事で、しかも五代目菊五郎の葬儀の時にごたごたがあって上手くいかなくなり、すぐに瓦解したようです。
普通「四人同盟」とは、この芝翫・梅幸・家橘・高麗蔵の同盟のことを指します。
(後の事になりますが-と言ってもこの年の11月、芝翫が自分の扱いに対する不満と井上竹次郎との確執が極まって東京座へ走り、残った梅幸・羽左衛門・高麗蔵は八百蔵と再び行動を共にする約束を。しかしそれも翌37年2月に高麗蔵が東京座へ移ると、またもや瓦解してしまう事となります)

公證役場で皆調印した「四人同盟」に関して、歌右衛門は自伝で、
「団十郎死後、誰が天下を取るかわからぬ、今に俳優が割れてバラバラになる。同盟しなくちゃいけない」
とその理由を語っていて、それには台頭してきた新派劇に対する敵愾心があったとする別史料の話もありますが、歌舞伎座の大株主で経営側である井上竹次郎との間に出来た溝から孤立を考えての約束、という側面が大きかったのではないかと思います。


  • [63]
  • 創立八十周年記念 前進座五月国立劇場公演

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 5月15日(日)23時55分55秒
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初めてこの一座の舞台を観ました。
演目は「唐茄子屋」「創立八十周年記念 口上」「秋葉権現廻船噺」。

前進座は昭和6年5月22日、市川荒次郎を幹事長として、河原崎長十郎・中村勘右衛門・河原崎國太郎(当時市川笑也)・中村鶴蔵・嵐芳三郎・瀬川菊之丞・坂東調右衛門、藤川八蔵ら若手32人(平均年齢23歳)で旗揚げされ、6月21日初日市村座が初公演でした。
思っていた以上の若さに驚きますが、市村座という大きな小屋での興行は立派。しかし初日は1200人定員に対し、20人しか入らなかったそうです。
(荒次郎はこの年退団。加東大介は元左団次の門弟で、市川莚司として前進座設立メンバーだったのですが、復員後退団)

この年の正月、松竹を飛び出した2代目市川猿之助を筆頭とした若手俳優たちの春秋座が旗揚げ興行を打ちましたが、その後の内部亀裂により袂を分かった3派の中で長十郎を中心とした若手連が前進座であり、小太夫たちが「新興座」を立ち上げ、猿之助は段四郎や八百蔵と6月に羽左衛門・左団次の肝煎りで松竹に復帰したのは「鈴ヶ森騒動」で述べたとおり。

今回この前進座の舞台を観て感じたのは「いい一座である」という事です。松竹付きの俳優の舞台にはない独特の味があります。
特に「唐茄子屋」のような人情世話には強みがあり、一座として所属する俳優達にここならではの結束感があると思え、気心の知れた仲間との遣り取りが心情を醸し出しています。
「~一座」というものはただ看板だけでなく、同じ釜の飯を食っている役者たちが仲間意識を持ち、舞台に特色をを生みやすくなるものです。

以前は劇場としても東京には帝国劇場や市村座、明治座、宮戸座や本郷座、寿座など、横浜にも喜楽座や横濱座と多くの芝居小屋があり、それぞれが独自の味を出してその小屋らしい芝居をしていました。
現在は猿之助一門と前進座以外松竹付きになってしまったため、「一座」感が薄れているのは残念なことなのかもしれません。

また江戸時代の話を丁髷をして着物で演じただけでは歌舞伎の芝居にはなりません。世話物でも歌舞伎としての骨法があり、三味線や鳴り物の下座音楽と共に役者が台詞回しや所作にそれらしさを持って演じなければならないのです。
所作の基本となるのは踊りであり、台詞は義太夫や常磐津などの経験がないと新劇臭くなってしまいます。これらの修行は必須科目。

前進座には歌舞伎俳優ではない人もいますが、養成所からの入団であるためなのか違和感ない舞台でした。
もっとも「唐茄子屋」は中心となる主役級はベテランと、次世代を背負って立つ嵐芳三郎ですから、それぞれのしどころをしっかり勤めればいいのですが、どの役者さんも存在感があって無駄な人がいなかったように思います。

初演が昭和33年の前進座の芝居で、落語「唐茄子屋政談」を元に平田兼三が脚色した世話物。
幕開きから不思議に思いながら観ていたのですが、女優が出ているにもかかわらず、全く違和感のない舞台には驚かされました。
脇役にしろ歌舞伎芝居に女優が出て来ると空気感が違ってくる場合があるのですが、新劇臭さもなく自然に流れていき、どの人も芝居に溶け込んでいます。
この舞台に馴染んでいると言う事は非常に大事。名家の子でも空気が変ってしまい、舞台をぶち壊しにしてしまったものを観たことがあります。

嵐芳三郎演じる徳三郎は「つっころばし」と言ってもいいような滑稽味もあり、江戸和事の難しい役かもしれません。この人は根が真面目と感じますし、がんばって演じていました。
おたね役の今村文美はやり過ぎないところが、この芝居では生きていたと思います。とても美しい女優さん。

伯父六兵衛の村田吉次郎、いい役者ですね。江戸弁(といっても、べらんめぇの方ではなく、ちょっとしたやり取りの台詞)が自然で、間の取り方が上手かった。
気のいい伯父さんであり出過ぎるわけではなく、東京の人間が聞いてもおかしくない台詞回しはなかなか出来ないのですが、この人の台詞は自然で福岡出身ということで余計驚きました。
歌舞伎の人ではなくても流石ベテラン、世話物なら魅せてくれるはずです。前進座の舞台には欠かせない役者さんでしょう。
その妻おとめ役のいまむらいづみも、いい味出していました。この一座は腕のある人が揃っているのではないかと思います。

「秋葉権現廻船噺」は國太郎がお祖父さんを思い浮かべさせる出来で、特に花道の七三で舞台を向いた後姿、膝の辺りがぐっと締まったあの先代の色気を感じたのでこれだけは述べておかねばならないと思いました。
舞台は観ていなくても映像で前進座の芝居は接していますから、観ておくことは必要なことだと感じますし、当代が所作の端々に気を使っていることが想像できます。
もちろん自然に演じているわけですが、思っていた以上の現國太郎の役者振りに嬉しい驚きを持ったわけです。女形の場合、後姿に全てが出てしまうので、当代がいい女形であることは前進座にとって宝となるはず。今後も期待大です。

とにかく一座で一丸となって舞台を勤めていて、その昔、小屋ごとの芝居がそれぞれ独自のやり方と味わいを持っていたことと通じるような気がして嬉しかった。
そういう意味で「唐茄子屋」は人情モノとしては、今まで観た中では一番良い舞台でした。
「口上」の後の「秋葉権現廻船噺」も77年ぶりに上演された前進座だけの狂言ですし、これまた前進座だけの「唐茄子屋」と合わせての創立八十周年記念公演はとても満足感がありました。
口上や最後に久留米信濃之助に長袴で出た中村梅之助は、懐かしいの一言。遠山の金さんで馴染んだ世代ですから。

http://www.zenshinza.com/

写真は昭和11年に前進座で「助六」が上演され長十郎が勤めた時、羽左衛門が指導した稽古のひとコマ。この時意休は翫右衛門、揚巻は國太郎が勤めました。
羽左衛門は長十郎と國太郎に「累」の稽古もつけています。


  • [62]
  • 66回目の5月6日

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 5月 6日(金)23時18分21秒
  • 返信
 
今日は羽左衛門の命日でしたので、鶴見總持寺へ御参りに行ってきました。
雑司ヶ谷の方は誰かが必ず行っているので、こちらに花を供えます。
墓地を清掃している方が、マシンを使って落ち葉などを吹き飛ばし、綺麗にしてくれました。
NHKの番組でここにこの一族のお墓があることを知ったそうですが、善意で手伝ってくれたのは有り難かった。
羽左も喜んでいたと思います。

  • [61]
  • SP盤 「與話情浮名横櫛」

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 4月17日(日)21時58分11秒
  • 編集済
  • 返信
 

この狂言は羽左衛門・梅幸でとことん仕立て上げられたもので、そうでなかったらその後頻繁に上演さたのか分からない出し物とも言われてます。
松助が「八代目さんより上です」と、五代目菊五郎が「これはお前のものだな」と言っていた、羽左衛門の代名詞。
助六と共に彼とは切っても切れない極め付け、与三郎が満を持して登場です。

1「與話情浮名横櫛」玄治店の場 ニッポノフォン 4568~4581 7枚組み 紺レーベル 大正10年11月
2「與話情浮名横櫛」玄治店の場 ニッポノフォン 4651~4664 7枚組み 赤レーベル
羽左衛門、梅幸、松助、幸蔵、村右衛門

レーベルの色違いだけで、内容は同じ。マニアはこういうモノも黙っていられないとのこと。
震災前の録音で、人気狂言ですから何度も蓄音機で再生されたためノイズが多いですが、羽左衛門、梅幸、松助三人の名人ぶりは味わえます。
松助は「何にもしていないように見えるけれど、とにかく自然で上手いとしか言えなかった」と本職の役者が驚いているのですから、舞台でも素晴らしかったのでしょう。
その魅力は掛け合いの部分で一段と発揮されることがこの録音で分り、呻ってしまいました。
羽左も梅幸も若い声ですが、素晴らしいのは言うまでもありません。

羽左衛門の録音はこの月に発売された盤が初物になりますが、4種類同時に出ています。
レコード番号から「雪夕夜入谷畦道 直侍」蕎麦や返し入谷田圃の場 2枚組み、「桐一葉」黒書院長門守勅言の場 1枚もの、この音源、[12]で紹介した「江戸育御祭佐七」7枚組み、の順で録音されているようです。

3「與話情浮名横櫛」玄治店 ニッポノフォン 50001-A/B 一枚もの 昭和3年7月
羽左衛門、梅幸、松助
「演劇界」付録CDの音源。レコード番号は、表裏がA,Bでの表記になっていますが、羽左衛門に関しては、[19]で紹介した大正11年1月「小袖曾我薊色縫」4枚組みまでの盤は、続き番号のみ。

4「與話情浮名横櫛」玄治店 コロンビア 35023-A/B(14820)一枚もの
上の録音をコロンビアレーベルの「電気吹込」でプレスし直したもの。35023-A(14820)
レーベルはこれ以外の色も作られていたようです。

5「玄治店」-與話情浮名横櫛-ポリドール 2287-A/B 一枚もの 電気吹き込み 昭和7年3月
羽左衛門、梅幸、勘彌

盤の状態もあってかとにかく音がクリアで、役者の息遣いまで感じる逸品。勘彌はともかく梅幸のお富ですから文句なく、脳溢血の後で電気を口に当てて治療していたにもかかわらず、(気持ちもたつきもあるとは思いますが、それも気にならない)いい出来の録音でしょう。
「哀れを感じさせるお富は他にはなかった」と戸板康二が言っていたように、本心から与三郎に心を寄せていたお富の心情を感じるはずです。
羽左の与三がまたいい。肩肘張ってなくて、舞台でも自在に演じていたことが伺える台詞が堪能できます。

6「與話情浮名横櫛」源氏店の場 ビクター 5885~5889 5枚組み 昭和17年11月
羽左衛門、仁左衛門、友右衛門、訥子、荒次郎

初めて羽左衛門のSP盤を聴いて、その魅力に憑り付かれた最初の録音。電気吹き込みでSP盤収録が完全に手の内に入っている洗練された運びとべらんめぇの台詞回し、そこここに溢れる江戸弁の間と呼吸が他とはレベルの違う上手さと完成度であるのに驚き、痺れたのは昨日のことのように憶えています。
何度聴いてもその良さは変わらず。通して聴いてこそ、羽左衛門の凄さの真髄が分かる名盤。
お富・安とのそれぞれの絡みで絶妙な間のやり取りが飛び出すので、名台詞だけでなく他の部分でも是非「本物」の与三郎の魅力を味わって頂きたい。
これを聴くと「源氏店」は梅幸の言葉通り与三郎の狂言で、与三さえ良ければ全てが丸く収まること、羽左衛門の舞台は相方が誰でも問題がなかった、ということが分かってきます。
戦後何度かLPやカセットテープで再販されていますので、入手は比較的楽ではないかと思います。

7「切られ與三」源氏店 ポリドール 1365-A/B 1枚もの 昭和8年5月
木村富子作詞、柏伊三郎作曲、臺辭:市村羽左衛門、唄:大阪 富田屋里榮、伴奏:柏伊三郎

歌舞伎小唄として7枚シリーズで出された、異色録音。先の「助六」や「暫」と同じく芸妓に小唄を歌わせ、合間に羽左衛門が名台詞を入れたものです。
小唄集としてはこれとその2枚の他に、「紅葉散故郷の唄」1111-A/B 昭和6年12月(11月に歌舞伎座で初演)、「お嬢吉三」1150-A/B 昭和7年2月(2月に歌舞伎座で上演)、「江戸絵両国八景」1151-A/B 昭和7年5月(4月に歌舞伎座で初演)、「直侍」1468-A/B 昭和8年12月(11月に歌舞伎座で上演)。
「切られ與三」は昭和8年4月歌舞伎座で上演しましたが、胃潰瘍のために5日から休演したのは、前出のとおり。
羽左衛門は「岩倉具視」の桂小五郎、「戻駕色相肩」吾妻の与四郎も勤めていましたが、この日、与三郎を宗十郎、桂小五郎を友右衛門、与四郎を六代目が代役しています。6日から「源氏店」は「切られお富」に揚替えされました。

さて昭和3年7月のニッポノフォン盤です。この録音、「三絶」という事でよく引き合いに出されますが、羽左衛門の「与三郎」中では一番出来が… 声が低く張っていないですし、不機嫌な感じに聴こえます。
実は80回転で録音されていて、78回転とされているSPプレーヤーで聴くと本当の声にならない、との説を小山観翁さんからお聞きしたことがあるのです。

78rpmが固定となったのは昭和5年とも言われていますが、それも確実でなく怪しいものもあるとコレクターの方からの情報もありますし、明治・大正期の盤には、72.76.82.83rpmも在るそうですから、羽左衛門としては異例なほど沈んだ声を考えると、回転数が違う可能性もあるとは思います。
現にポリドールはその後の電気吹き込みでも1分間に80回転ですから、ニッポノフォンがそうでもおかしくありません。
ただ原盤があるはずの株式会社日本蓄音機商会、現在のコロンビアの音源ですから、「演劇界」付録CDの音源はその辺りを合わせているはずなので、何とも首を傾げてしまいます。

また野口喜美子さんは「この時伯父は歯を抜いた直後でした」と語っています。
そういえば余り口を開けないでの台詞に聴こえますし、声を張るべきところを張っていない。
とにかくこれだけを聴いて羽左衛門の「与三郎」だと思われると、本人としては…? 他の役者のものよりは、遥かに良いのは言うまでもありませんが。

スピーカーと再生装置が二組同じ部屋にあるので、コロンビアのSP盤「玄治店」をこのCDと同時にかけてみました。同じ音源。
結果、終わりの時点で1秒程ずれが出ます。これが78回転と80回転の差なのか、判断は難しい。
コレクターの方に回転数について確認すると、初期のものには表記のあったものもあるけれど、その後はなくなっているとのことで、蓄音機で再生していた当時を考えると数回転は誤差の範囲と言えるのではないでしょうか。
ポリドール盤を78回転で聴いても、全くと言っていいほど違和感は感じません。

コロンビア盤はLPでも再販されていて、それでも羽左衛門の声は明らかに沈みがちなのは変わず。
実際の舞台を観た人も言っていることですし、70種ほどを何度も聴いてきた者からすると、この録音は他とは違う、としか言えません。
喜美子さんの言葉通り、歯を抜いた直後で普段の声ではなったと考えるのが妥当、と判断しています。

或いはもう一つの可能性として想像力を働かせると、新聞では録音後の吹き込み料問題となっていたと記憶していますが、実はその直前に話の食い違いがが発覚していて、それでも録音は決定事項、洋行の費用として予定していた半額では気持ちに収まりがつかないにもかかわらず、「仕様が無い」という思いで吹き込みせざるをえなかった…
他の二人は抜群の出来ですし、どう聴いても羽左だけ不機嫌で沈んだ声に感じるのは、そんな落ちがあるからではないかと…
尤もこれは全くの憶測ですから、羽左さんが聞いたら何と言うか。

指一本の出演話がラジオ放送であるならば、吹き込み時のごたごたによるものという推測は外れていますから、歯を抜いて気分が盛り上がらなかったと考えるべきなのか…
とにかく与三郎は是非他のものも聴くことをお薦めします。と言うよりもこの録音では羽左衛門の本当の与三郎は分味わえないので、他を聴くべきでしょう。

三絶にこだわるなら大正10年11月ニッポノフォン盤、お富を梅幸でこだわるなら蝙蝠安を勘彌が勤めた昭和7年3月ポリドール盤。
これらは昭和17年11月のビクター盤と共に、どれをとっても羽左衛門は良いです。
梅幸のお富は他には得られない味、与三郎に対して面目ないという気持ちが本当に感じられるのでこの人が絶対ですが、録音状態を考えてポリドール盤が一押しとなるでしょうか。
羽左の与三も洒脱さではこれが一番。

大正10年ニッポノフォン盤をノイズ処理すれば、一幕通じた三絶「源氏店」が楽しめるのですが。やはり松助は名人。妾宅外でのやり取りはこの二人ならではで、江戸前の台詞の掛け合いの素晴らしさは他の人では出せないでしょう。ビクター盤もやはり羽左衛門は最高です。


  • [60]
  • 演劇界 2011年5月号

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 4月 8日(金)02時30分52秒
  • 編集済
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【巻頭大特集】稀代の美しき名優の芸と人-十五代目市村羽左衛門
◎特別付録 目と耳で味わう橘屋《姿》ブロマイド撰 《声》源氏店CD

ある期間を置いて特集となると想定はしていましたが、今回の「演劇界」が羽左衛門特集で出たことはとても嬉しく思います。
幾つかの写真がどこにあるかも分かりましたし、見たことのない若き日の羽左衛門(襲名後)の和服姿が掲載されていたからです。
しかも扉の次頁にここの [3]で載せた写真が大写しにされているのには、有難くて涙が出たほど。
歌舞伎座に飾られていたものは最晩年のものでしたから、羽左衛門も納得していなかったはず。
これぞ羽左衛門。

撮影は洋行前後。と言うのも羽左衛門は欧米旅行に合わせて髪を伸ばし始めたからで、それ以前は一部の隙もなく刈り揃えられた「角丸」と呼ばれる髪型だったのです。
羽左衛門一門は合わせる事が常で、「旦那」同様それまでは短い頭でないとだめでした。
タキシードから判断して帰国後のものでしょうから、少なくとも羽左衛門は55歳。

この写真を取り上げ、一頁大にして紫の写真枠にしたのは、編集に関わった人のセンスの良さが窺えます。
もちろんこの色は「助六」の鉢巻、江戸紫をイメージしたものでしょう。羽左衛門には紫が良く似合う。
メジャーな雑誌に掲載され多くの人々に見てもらえて、羽左さん、喜んでいると思います。

竹田真砂子さんと石橋健一郎さんが寄稿していて、それぞれ興味深いことが書かれています。
竹田さんの野口喜美子さんに関する話、木登りの件は先に書かれてしまいましたね。
やはり本職が書いたものは、表現の上手さに感心させられるところが多くありました。

ただ字に関しては喜美子さんから言わせると、
「伯父は筆を持たせると字は上手かった」と言っていたので、どちらを取れば良いのか何とも分からなくなってしまうのですが。

特別付録のCDは、羽左衛門、梅幸、松助という三絶。これは昭和3年7月にニッポノフォンレーベルで発売された録音。
この年の3月30日出発で羽左衛門は洋行してますから、これは旅行資金捻出のために録音された一枚ではないかと思います。本来欧米旅行は、羽左衛門と梅幸の二人で行くつもりのものでした。
梅幸が昭和3年正月帝劇で「茨城」を勤めていた時、舞台での演技中に後シテの件で倒れてしまったので、お春夫人との夫婦旅となったわけです。

梅幸が脳溢血で倒れた後の録音であるはずなく、芝居興行中も考えにくい。前年12月26日から29日まで歌舞伎座では東京俳優協会の改称記念演劇大会があり、羽左衛門は「増補太閤記」木下藤吉郎で出演していますから、11月以前に吹き込まれた可能性が高いです。
8月9月と羽左衛門は休みでしたが、帝劇組の梅幸、松助は確認できていませんし、吹き込んでから1年近く置いておくかどうか分からないので何とも…
3人は昭和2年11月に帝劇に出演していますから、楽の後に時間を作っての吹き込みではないかと推測しています。

またこの時の録音料に関しては逸話が残っていて、羽左衛門と日蓄の担当者とのやり取りで、羽左衛門は壱萬円のつもりで「これ!」と指を一本出したのですが、担当者は「壱千円」と思い、ずいぶん安く吹き込んでくれるのだなと喜びました。(金額も含め印税込なのかは再調査が必要)
双方自分の思っている金額で事が成立した、と笑顔で握手。契約書など交わすことがなかったので、とんとんと話は進み、録音は無事終わります。
いざ支払いの段になると、それぞれの思っていた金額ではなかったので問題となり、結局は指差しだけで額を双方確認しなかったのは悪いとして、中を取っていくらかに落ち着いたと当時の新聞に記事が出ていました。

ただ以前新聞記事を読んだ記憶なのでこの録音時の話か現時点では定かではなく、吉川吉雄著「藝能らくがき帖」によると指一本での出演料騒ぎはラジオ放送時のこととして書かれていますから、その時の事かもしれません。
ラジオだったにせよ出演料を洋行の費用の一部と考えていた羽左衛門は、他に資金調達が必要になり、その時ばかりは彼も江戸前(というのでしょうか?)のやり方が通用しない場合もある、と思ったことでしょう。

とにかく羽左衛門が特集されたことは喜ぶべきこと。「河江十二集」には収まりきれない極め付け「当り役二十撰」(本当はそれでも足りない)が紹介されていますし、ここで使ったもののトリミングしていない状態が分かる写真も掲載されています。
ブロマイドとCDまで付いているのですから、5月号の「演劇界」はお買い得感があります。

写真は昭和7年11月歌舞伎座 団十郎追善興行「助六由縁江戸桜」助六。総天然色版にはまだしていないのですが、「演劇界」に敬意を表して。
下はCDに合わせて昭和17年6月歌舞伎座「与話情浮名横櫛」与三郎。

演劇界 2011年 05月号 [雑誌]

  • [59]
  • 「市村式」その弐

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 4月 5日(火)02時02分19秒
  • 編集済
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「市村式」とは羽左衛門の活躍した時代には、一般的にも知られている言葉でした。
言動や考え方が独特で、彼ならではの生き方の認知があったわけですが、持っていた愛嬌が大きく影響していたのだと思います。
「神の寵児」と言われ、「羽左衛門ならしかたあるめぇ」と天の世界でも許された存在だろうと考えられていました。
実際「悔しいけれど憎めなくて涙が出るほど」と市村座時代の田村成義も言っていて、彼の愛嬌には敵も味方も参ってしまったのだそうです。

従兄弟で女房役の六代目梅幸は心底羽左衛門に惚れていましたし、友達でもあり8歳違いの「兄さん」でもあった五代目歌右衛門や、団十郎一門の四高弟のひとりで19歳年上の二代目段四郎など役者仲間でも例外ではありません。
段四郎が「市村は困るよ。男を惚れさせて困るよ」と口癖のように言っていた、と書かれているものも残っています。

羽左衛門に長い間これだけ入れ込んで止め処がないのは、知れば知るほど気持ちが強まるためで、録音を聴いた時の感激も全く薄まりません。
男の魅力を感じるからなのは間違いなく、録音や写真から感じる役どころのニンや芸の良さと相まって代えの利かない存在になっています。
普通多角的に情報を集めると以外なところにがっかりする部分が出てくる場合もあるのですが、彼にはそれが見当たらない。

羽左衛門は「品行方正で間違ったことは絶対しない」のではなく、変わったところがあっても存在自体が許せてしまい、どんな逸話も笑顔でそれこそ「市村式」と思えるのです。
会った事もないのに惚れているからでしょうが、段四郎や里見弴の気持ちが良く分かります。
「神の寵児」は広津和郎に言わせるとトルストイ、武者小路実篤、市村羽左衛門だそうです。

平山蘆江の「東京おぼえ帳」にも「市村式」の一端が書かれていて、思わず顔がほころびます。

「こしらへがきまつて立ち稽古にかゝる時、おいらは幾幕目と幾幕目に出場で、どこそこにたちまはりがあると、自分の仕どころをつかまへ、相手にまはる役者に、おいよくおぼえてておくれ、頼むよと言つたまゝ、さつさと引下りそれつきり稽古にも総ざらいにも顔を見せないことが多いといふ。
『馬鹿なはなしでね、橘屋さんの相手にまはつたが最後、一切の手順をひとりでおぼえこまなけれあばなりません。
初日になつてその幕があくまで打ちあわせなんてことは出来やしないんですからね。
いよいよ立ちまはりなら立ちまはりの場になってから、こつちから小声で、それ山がたです。それ天地です。それをやなぎで受けて、ヘイ一太刀斬りつけますよ。
両方にひらいて見得になりますなど、一々手順をいひながら相手をすると、ウンよしこうかえ、ああかえとあしらひます。何のことはない、初日が稽古の初あはせなんです。
それでいて大向ふから橘やアと声がかかるんですから、芝居をしながらどうかすると馬鹿馬鹿しくなつちやひますが、それほどいけぞんざいなやり方で、而もちつとも狂ひがないんですから、大したもんですよ』
羽左衛門の相手をする役者がこんな風にいふのを折々聞く事がある。
生まれながらにして役者になつているのだ。一挙一動が江戸前の役者に出来ているのだ。」

相手役が言っている通り初日は稽古そのものですね。当時は初日の木戸銭が普段の半額だったこともあり(江戸時代には無代)、見物も小屋側もそういう意識でやっていたので、羽左衛門は本筋とも言えるかもしれません。
ずぼらなやり方と取られる可能性も高いのですがそうではなく、身体に芝居が染み込んでいるからに他ならない。羽左衛門にとって芝居をする事は、息をすることと同義語だったのでしょう。
平山蘆江は確かな判断力を持っていたと言えるわけで、この話は他では見た事がなく、「東京おぼえ帳」は羽左衛門のページだけでも手に入れる価値があった本です。

しかし相方になった役者が自分の役以外にも芝居を覚えなければならなかったというのは、より勉強させるための羽左衛門の思い遣りだった、と言えるかも知れませんね。


  • [58]
  • 「市村式」

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 3月14日(月)22時13分13秒
  • 編集済
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大正12年9月1日、羽左衛門は関東大震災の日に明舟町の自宅におりました。
最初の大揺れが落ち着くと家族を表に出させ、その後の揺り返しには庭先の火避地に避難の用意を整えており、火事が来た、との知らせに家族や弟子が大慌てで荷物を持ち出す算段をしても、羽左は泰然自若と落ち着き払っていて、こう言ったそうです。

「なぁに、俺の家は決して焼けやぁしねぇよ」

相模湾を震源とした直下型と言われる関東大震災はマグニチュード7.9、東京を中心とした地域で揺れによる全壊家屋は少なくとも7万個以上、火災消失が50万個以上、亡くなった方が10万人以上の大災害で、この時沿岸部で10m以上の津波も記録されています。
全壊は神奈川の方が倍以上多かったにもかかわらず、亡くなった人数は東京が倍以上に上るのも、火災による被害が大半だったためです。

羽左衛門の自宅は潰れず残り、それでも激烈な揺れだった筈で、そこへ火事の知らせがあれば慌てるのも当然ですが、彼は違っていました。
「そんな事を言ったって旦那、火事の事ですからどうなるか判りゃしませんよ」と弟子が言っても動こうとせず、何故俺の家に火はかからないか教えてやろうかと、羽左衛門、火の粉を浴びながらこうのたまいます。

「俺の家の前には東伏見宮殿下の御邸があるんだ、だからどんな事があつたつて火は俺の家にゃかからねえといふのに無理はあるめえ」

一同はこれを聞いてなるほどと感心したのですが、少しも動じない羽左衛門が言えば説得力があり、妙な安心感を与えたのだろうと思います。
火は宮邸とは反対側、通りをはさんだ斜向かいにあった十一代目仁左衛門宅方面から焼け拡がって来て、「旦那駄目ですぜ。仰しやる通り宮様の方へは火がつきませんが、うらからついて来ましたよ」

「なぁに、いよいよ火がかかったら塀越しに荷物を宮様のお庭へ投げ込みねぇ」

結局は土蔵まで焼け落ちてしまい、しかしそれは慌てることなく手配りをして引き上げた後のことでした。
災害時には的確な判断と行動が必須で、今度の大地震では同じように行動していては命取りになった場合もあるでしょうが、まず揺るがない心が正しい判断を生むことになると言えましょう。

その後焼け跡へ悠然と現れた羽左衛門は、東伏見宮邸の庭に投げ込んで助かった荷物を大倉財閥創業、大倉喜八郎の厚意により自動車で大倉邸に運んでもらい、「自分は焼け落た土藏の中から珍藏の青磁の観音像を拾ひ上げ撫でまはし」眩やきました。

「矢張り焼けて了つたか、まア仕方がねえや」

赤坂山王下、杵屋寒玉邸へ避難させてもらっていた関屋家へ様子見に行った時、喜美子さんらに見せた溶けてくっ付いた銀貨の塊はこの焼け跡から掘り出したものです。
野口喜美子さんは当時8歳、関屋姓でしたが、その頃伯父だとは聞かされていなかったこのスマートな役者の顔を見て地震の怖ろしさを忘れた、と言っていました。
東京中が焼け野原になり誰もが煤で真っ黒だったにもかかわらず、風呂上りのようにさっぱりとして、この人の周りには爽やかな風が吹いているような感じがして輝いて見えた、そうです。
見るだけで安心感を与え、細身でありながら何か不思議な揺ぎない雰囲気を持っていた、と語っています。

今、大災害の最中にこの言葉を思い出すと、不安を吹き飛ばすその魅力の効用に浴したいと思わずにはいられません。

また羽左衛門は3日目には新橋芸妓の秀松とくみ子を両脇へ従えて、新橋から赤坂の焼け跡を視察して廻っています。
都新聞には「落附はらつた羽左衛門式引揚」と震災の時のことが記事になっており、そこでは焼け残った背広に麦桿帽子といった出で立ちだったとあります。
一瀬さんの勤めていた京都大丸では「タスカン」を購入していますし、いくつか残されている普段の写真から考えてもカンカン帽であったのではないでしょうか。
パナマだったとの説もありますが、いずれにせよ主に麦で作られた夏帽であるわけです。

知り合いとすれ違い、「明舟町のお宅は大変でした」と言われれば「いやどういたしまして」と、とんと気にもしないで落ち着いているところが、どこまでも羽左衛門らしいと書かれています。
竹田真砂子さんの「花は橘」ではこの時の件が描かれていて、羽左衛門の出現により「瓦礫の山に一瞬、涼風が立った」とありますが、全くそのとおりだったと思います。

彼は自分を見て人々に少しでも元気を出してもらいたい、と考えていたに違いありません。自身被災者でありながらこんな時でも変わらずにいることが、廻りには希望となり得ると心得ていたのでしょう。
誰もが不安と恐怖、喪失感に打ちひしがれていたと想像される時に、その鮮やかな姿で人々の心を和ませたのです。
これを「ずぼら」と受け取るのは羽左衛門に申訳ない。彼は純真で愛情の大きな人だったと確信しています。

今こそ羽左衛門に生きていてもらいたかったと思う時はありません。
被災地の大変な人達や、日本中の不安で押しつぶされそうになる人達の心に安堵の涼風を届けていただきたい。
折れない心、揺るがない心、前を見て希望を捉える眼差しが持てることを願って止みません。


  • [57]
  • SP盤 め組の喧嘩

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 2月28日(月)23時52分45秒
  • 編集済
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芝居木戸前の場。ポリドール 5075-A/B。
羽左衛門、彦三郎、荒次郎、村右衛門、梅助、羽太蔵、田中伝左衛門社中。

ある意味「幻のSP」と言われていたものです。
富士レコード社にも40年以上出た事がなく、一瀬氏や関川氏も見たことがありませんでした。
歌舞伎のSPに関しては録音リストは出版されていたのですが、公式なものではなくマニアが収集物を元にまとめたもののようです。
この盤はそのリストには載っておらず、一瀬氏の手元に昭和14年版の「ポリドール総目録」の複写が残っていて、この盤の記述からあるだろうとされていました。

ポリドールですのである程度枚数は出ているはずですから持っている人は持っているのでしょうが、お二人が見たことがないので珍品ということは間違いありません。
地方の方が残っている可能性が高く、今回の盤は大阪から出たものです。
あちらも空襲で大変だったはずですが、噂では「大阪には珍しいものがあるらしい」と聞いたことがあります。

知られているもの以外に録音がある可能性も否定できないのでは、と希望が出ます。
羽左衛門は「実盛」と「盛綱」を吹き込んでいないようですが、当り役としていたこれらの聞かせどころを残していないのは、逆に不思議に思います。
吉右衛門は「盛綱」を残していますし、吹き込んだけれど契約・販売上の問題でお蔵入りしてしまった等の理由でどこかに眠っていれば、そしてそれが発見されればいいのですが。
「生締めものをやらせたら、間違いなくどれをとってもいい」と言われていたのですから、どこかから出てくることを期待しているわけです。

この「芝居木戸前の場」は二幕目にあたり、芝居小屋で鳶と相撲の睨み合いに通りかかった辰五郎が、一鞭当てるところまで入っています。
さすがに羽左衛門の辰五郎は歌舞伎らしさたっぷりで、江戸弁の「間」がこの上なく素晴らしい。
何気ない台詞の言い回しが粋で洒脱で、ちょっとこれを真似られる人はいないのではないかと思います。江戸っ子は数多いましたが、誰もが憧れる喋りができるのはこの人だけ。

羽左衛門の辰五郎初演は家橘時代の明治34年1月演伎座で、染五郎の九龍山と喜三郎、幸蔵の藤松、猿糸のお仲。
最後が昭和16年1、2月続演歌舞伎座での辰五郎。この時の共演は菊五郎の喜三郎、三津五郎の藤松、吉右衛門の九龍山、仁左衛門のお仲でした。
ちなみに倅又八はなんと中村錦之助。当時九歳。羽左と錦ちゃんの共演は贔屓としてはとても嬉しい。

木村錦花著「近世劇壇史」歌舞伎座編では大正7年2月の舞台の評が載せられていて、
「羽左衛門の辰五郎が、その柄において、調子において、又その技藝において、間然する處のない出来であるは勿論、意気颯爽たる處が、何とも云えぬ痛快味であった」
とあり、岡榮一郎の評が引用されています。
「羽左衛門の辰五郎がこっそり下手から出て来ると、急に全体の舞台が生々と活躍し出して来る。そうして左団次(九龍山)の無器用で大まかな率直さと、羽左衛門の鋭い巧みな技巧とが甚く面白い対照を示してくる」

これらはまさしく羽左の辰五郎を言い当てていたでしょう。
世話物には欠かせない江戸前の雰囲気を、舞台に出て来ただけで劇場一杯に感じさせたことは、「二度と現れない」と言われていた彼の特性であったわけです。
歌舞伎という舞台演劇の根幹にかかわる部分ですから、SP盤でその味だけでも感じられるという事は貴重な体験なのです。

弁天小僧もそうですが六代目とはよく比較されていて、五代目菊五郎に繋がる従兄弟の二人はある意味対照的な名優です。
歌舞伎の本筋としてのいき方は羽左衛門に分があると分かっていた六代目は、心理的描写に重きを置いた写実的「菊五郎歌舞伎」とも言える独自の境地を目指していった、と考えています。

CDの六代目の「炊出喜三郎内の場」、羽左衛門の「辰五郎内の場」と通して聴くと、それぞれの役者の特徴が分かり興味深い。
或いは辰五郎を場変わりと考えて、仮想の歌舞伎座の舞台を想像しても面白いですね。
この後SP盤復刻シリーズとして羽左衛門の録音がCD化される時は、間違いなく選ばれる一枚でしょう。
「芝居木戸前の場」は羽左衛門からの贈り物だと思っています。

写真は昭和16年1月歌舞伎座「芝居木戸前の場」。下が昭和12年2月東劇「神明町鳶勢揃いの場」喧嘩前の景気付け。美しい型にも気迫が漲ります。


  • [56]
  • 別荘にまつわる話

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 2月13日(日)01時13分49秒
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昭和8年ごろから歌舞伎役者が新たに、続々と湘南に別荘を持つようになります。
梅幸と羽左衛門、幸四郎は鎌倉山に、吉右衛門は大磯、尾上菊五郎は鎌倉、歌右衛門は葉山にこの時期別荘を購入したのは、東京では「俳優税」として一等俳優に壱千円、二等俳優に五百円が課税されたのと関係があったようです。

昭和8年に三津五郎が横浜に引っ越して神奈川には課税がない事が知れたためで、梅幸は昭和9年に引退するつもりがあり、その後を鎌倉山で過ごそうと考えていたのですが、その9年に舞台で倒れそれも叶わぬ事となりました。
梅幸亡き後、元柳橋の芸妓・君子であった富士子夫人はこの鎌倉山別荘に住まいし、羽左亡き後はお春夫人も隣同士で余生を過ごしました。

ただし、羽左をはじめ鎌倉山組は昭和3年第一回の分譲受付に申込みをしていますから、税金対策とは違うのですが。

もともと羽左衛門は大磯にも別荘を持っていて、ここには歌右衛門、梅幸、左団次、菊五郎も所有していたようです。
明治の半ば頃、当時の文化人の中で茅ヶ崎に別荘を持つことが流行りましたが、九代目団十郎がその走りと云われており、彼はこの地で明治36年9月に亡くなっています。
その敷地六千坪。この付近は「団十郎山」と後に呼ばれ、今はその事を記した石碑が建っているだけです。
九代目を慕って、川上音二郎もこの地に別荘を購入しました。

羽左衛門は大正13年10月版「日本俳優名鑑」には 原住所が「静岡県沼津町牛臥」となっており、
震災後この地へ一時的に住所を移していたからで、実は「沼津町牛臥」なる地には関屋家と共にこちらにも別荘を所有していたのです。
愛ちゃんとの話し合いからでしょうが、この辺りはお春さんには知らせていなかったのでは…。
「静江」との一件もあり、お春さんは愛ちゃんを快く思っていなかったので、きっと事後承諾となった事なのでしょう。

明舟町の自宅が潰れてしまったための処置にしても、関屋家とは普段から深いつながりを持っていたことが浮かび上がってきます。
鎌倉山には昭和3年に脳溢血で倒れた後の療養として梅幸が先に別荘を建てたのですが、羽左衛門が沼津を引き払って隣に移したのは、やはり一緒に居るのが「自然」な二人だったからでしょう。

写真は牛臥山の近くと思われる浜辺で寛ぐ羽左衛門(演芸画報)。今の牛臥山公園の辺りか。沼津御用邸にも近く、明治政府高官の別荘も多かったようです。


  • [55]
  • 十五代目羽左衛門の初舞台

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 2月 3日(木)05時28分37秒
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一般的には明治14年1月新富座「千本桜」すし屋倅善太「寺子屋」菅秀才が初舞台となっています。

安部豊編「舞臺のおもかげ」、三宅周太郎著「羽左衛門評話」、川尻清潭編「名優芸談」に収録されている「可江夜話」、その元になった羽左衛門本人が語ったとされる話をまとめた明治41年1月号「演芸画報」の「名家眞相録・其十二」でもこの二役を初役としています。
菱田さんの出した写真集の巻末にある「十五世市村羽左衛門出演年表」では「千本桜」六代君と「手習鑑」菅秀才になっています。

明治14年1月の新富座出演は「続々歌舞伎年代記」でも竹松は「六代御前」とあり、権太の倅善太は「仲太郎」が勤めたことになっていて、竹松は六代君のみの記載。
そこではこの月の新富座は「松梅雪花三吉野(あいじゅのゆきはなとみよしの)」の表題で「義経千本桜」と「菅原伝授手習鑑」が一日代りで上演とされています。

新年の幕引き興行と称して12日に式三番叟と手習鑑(車曳)を演じ、13・14日を休みとして15日より興行され2月16日の千秋楽まで満員続き。
「千本桜」は木の実・すしや・御殿、「手習鑑」は道明寺・車曳・寺子屋で、各優が考えられないほどの数の役を一日替わりで勤めていて、驚かされます。

団菊左は菅公・松王・梅王・桜丸・時平公・覚寿・権太・忠信・義経・覚範等々二十二役入り乱れての配役。中には涎くり与太郎まで勤めていてとても面白い。
さらに中村宗十郎(上方の重鎮)、小團次 (五代目)、坂東家橘らも幾つか同じ役をやっており、八代目半四郎や三代目仲蔵(鰐口)も出演していたので、毎日観に行っても飽きなかったでしょう。
想像するだけでもワクワクするような面子です。しかし、団十郎の忠信と権太はニンではないので評判は良くなかったようですが、観てみたかった。桜丸も同様です。

ただし「続々歌舞伎年代記」の記載では団菊は22役勤めたことになっていますが、「舞台之団十郎」で団十郎が17役、「五代目尾上菊五郎」で菊五郎が年代記に載っていない「水奴(奴宅内)」を加えた18役勤めたとされていますので、本当に22役演じていたかは分かりませんが。
(明治14年1月新富座の番付けでは団菊左22役の記載は確認済み)

竹松に関しては「舞台のおもかげ」に善太の写真が掲載されていて、この頃他で「すしや」へ出ていたことは確認できていませんし、別の役者も何役も勤めていますから彼はこの役をやったのでしょう。
清十郎時代の四代目源之助が小せんを勤め、竹松の手を引いて出たことが書かれたものもある上、写真が残っているという事は演じたからで、子役も日替わりしていて菅秀才も勤めていると思います。

田村さんが観た時は六代御前で、他の日も行っているでしょうが竹松は記録し損ねてるか意識になかったのでは…番付けをを元に年代記を書いたからなのかもしれません。番付には六代御前だけ記載されています。菱田さんも羽左衛門出演年表を作るにあたり、調べていて困ったでしょう。
さらに明治41年の「名家眞相録」で本人が語っているように書かれていることが大きく、その後のものは参考にするのも当然です。
年代記や舞台のおもかげでの記述の違いは、こういった理由があったのではないでしょうか。

とにかく初役は「羽左衛門伝説」と折口信夫の「市村羽左衛門論」以外、明治14年1月新富座を初舞台としているようです。

昭和16年初夏に築地の料亭「錦水」で大谷竹次郎や川口松太郎、菊池寛、吉川英治、久米正雄、三宅周太郎などと共に里見弴が、「あまりにも舞台の芸が冴えていて薄気味悪い位」で良すぎるのもかえって怖い、厄落としとして羽左衛門を表彰しようとなった時、祝辞を述べたのが里見さんですが前もって祝詞の草案を本人に見せると、上記の二役ではないと言われたそうです。

「普通かう言われてゐるが…御面倒でも直して頂きたい」

本人も長い間、明治14年1月が初舞台と認識していたのかもしれません。
しかし、この時期になって記録などから実は明治13年に舞台を踏んでいたことを知って(思い出して)弴さんに伝えたような気がしています。
川尻清潭の「可江夜話」は羽左衛門からの長年に渡る聞き書きを、一編の芸談風に纏めたものですが、「名家眞相録」にはない昭和になってからの話がかなり出てきます。
そこで明治14年と語っているように書かれているのは、一般的に言われていたからでしょう。

弴さんが「続々歌舞伎年代記」を調べなおすと明治13年11月6日からの新富座で「木間星箱根鹿笛」備前屋の倅「市松」という役を勤めていることをつきとめます。
奉書紙に清書した祝詞は羽左衛門に渡してしまい、記憶に頼るしかないのだが肝心の役名は忘れてしまった、と書いていますから祝辞でその役を読み上げたかは定かではないのですが。
少なくとも本人が訂正を求め、年代記にも記録があるのですから「備前屋の倅市松」が初役となるのでしょう。しかし、これがどうもおかしい。

この黙阿弥作の散切りモノの原作を見ると「備前屋」なる役は確認できず、年代記でも養父家橘は浮島新三郎と大詰めの巡査役についての評は書かれていても、配役にある備前屋の「小橘」に関しては何も触れられていません。
12月17日までの興行だった新富座では一番目に「茶臼山凱歌陣立」二番目が「木間星箱根鹿笛」何れも新作。
大切に「樹々錦旅路土産(きぎのにしきたびぢのいへづと)」なる浄瑠璃が出ています。「團州が望む伊勢音頭/梅幸(菊五郎)が好む越後甚九」とあり、「惣座中出勤、常磐津連中、清元連中」になっていますからこれは総踊りに近いものだったのでしょう。

明治13年11月新富座の番付には確かに「備前屋の倅市松 - 竹松」が確認でき、冊子の筋書きには「樹々錦旅路土産」の版画が載せられていて「市松 - 竹松」の文字と橘の黒紋付に袴の「竹」と印されている姿が中段に確認できました。
おそらくこれが「備前屋の倅市松」なのでしょう。坂東家橘の「小橘」も記載されています。
番付絵で中程に描かれているのはその他大勢的ではない扱いであり、市村家の跡取り養子の初舞台であったためだと思います。
劇中で養子縁組の披露口上もあったのではないか、との推測も無理はないでしょう。
(所有する明治13年11月新富座の番付は、残念ながら「樹々錦旅路土産」の番付絵は未収録。それの入ったものは現存していて、市松-竹松の文字と絵を確認)

本人が明治14年1月以前のものを指摘し、「樹々錦旅路土産」備前屋の倅市松で舞台に出ていることが確認できたのですから、この役が十五代目市村羽左衛門の初舞台、である可能性が高いと思っています。(それ以前には竹松、録太郎共々名前は発見できず)

年代記では「木間星箱根鹿笛」の後にこの興行の全配役がまとめて記されていますから、読み違える可能性は高いと思います。
この狂言は明治23年・27年・28年に上演されていますが、その後は三代目左団次が戦後に復活させるまで舞台にはのったことは確認できていません。
新富座の番付を確認して初めて特定出来たのですし、弴さんと折口さんの記述がなければ真相は突き止められなかったのですからお二人の功績はやはり大きい。

いずれにせよ坂東家橘が録太郎を竹松と名乗らせると決めた身祝いが明治13年4月1日からの5日間ですから、その年に初舞台へ出したのは自然なことでしょう。
散切りモノでなく、賑やかな景気のいい出し物が羽左の初舞台と考えると嬉しい気持ちになりました。

弴さんは「錦水」で祝辞を述べる時、立って二人向かい合うことを誰かに促されたのですが、NHKのインタビューでその時の感激を喜び一杯に語っています。

「自分ながらみっともない、う~と(奉書を持つ手が)震えてやがんだな。ん~、この手の震えることが自分で分かればね、そう上がってない証拠なんだけどね。声は震えなかったけどもね。前ぇ見るとね羽左衛門が、大好きな羽左衛門が神妙な顔をしてね、両手を腰に当てて、前屈みになって聞いてやがんじゃないか。嬉しかったね、ちょっと、うぁははははっ」

この件は何度聴いても彼の嬉しさが伝わり、こちらも楽しくなって釣られ笑いさせられます。
その祝詞の題名「旺なるかな市村羽左衛門」を書きながら嬉し涙がにじんだとありますから、弴さんの羽左衛門贔屓は「病孔孟に至る」と言ったところでしょう。

写真は安部豊編「舞臺のおもかげ 市村羽左衛門」で初役とされている明治14年1月新富座での「千本桜 鮨屋」の倅善太。
下の二枚は「奥村書店」「豊田書房」なき後、コレクターの強い味方「木挽堂書店」で入手した明治13年11月新富座の番付。配役名は少々見難いですが「備前屋の倅市松-坂東竹松」と確認できます。
(コントラストを高め、見やすくするためにモノクロに変換)


  • [54]
  • 六代目尾上菊五郎 歌舞伎名場面集

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 1月30日(日)23時28分34秒
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ここは「十五代目市村羽左衛門」に的を絞ったスレッドですが、これを紹介しないわけには参りません。

歌舞伎のCDとしては最も価値あるもののひとつで、このような形で販売がされたのは事件と言っていいと思います。
マニアの人でも持っていないものばかりで、聴きたいと思っていても出てこない音源が揃っているのに驚くと共に、雑音処理してあるのでその音質の良さに二度ビックリ。
震災前のラッパ吹き込みですから、SP盤ではこれほどすっきりと聴くことはできないでしょう。

1.「青砥稿花紅彩画(弁天娘女男白浪)」浜松屋店先の場
2.「神明恵和合取組(め組の喧嘩)」炊出喜三郎内の場
3.「梅雨小袖昔八丈(髪結新三)」髪結新三内の場
4.「曽我綉侠御所染(親譲御所五郎蔵)」五條坂出逢いの場

五代目菊五郎が得意としたこれらは「め組の喧嘩」以外、全て黙阿弥の作。め組も弟子の竹柴其水の作で、この録音の場は黙阿弥の補作となっているので指導しているのは間違いないでしょう。
羽左衛門も辰五郎が当り役で、明治末から大正にかけて二人の五郎蔵の比較が論じられました。
ここでの六代目とは違う場、「辰五郎内の場」を羽左衛門は吹き込んでいて、それぞれ良さがあり聴き比べるのも楽しいと思います。

「浜松屋」は同じ場を2枚モノで羽左衛門・幸四郎・13代目勘弥で録っていますが、この六代目と友右衛門のものは元本に近い台詞、ほぼ舞台どおりの運びで弁天の新内もありますし、「芝の神明で川流れだ」まで入っていますので満足感が高いです。
羽左版はSP録音に合わせた台詞の編集になっていて、そのつもりで聴く事が前提で、できれば羽左衛門の新内を聴きたかったのですが。
六代目はやはり、親父の出世作であるこの狂言にはこだわりがあったのだと思います。
それを知っているから「可江十二集」には弁天小僧を入れなかった。尤もこれは贔屓が選んだということですから、羽左本人はこだわっていなかったのかもしれませんが。

とにかくこのCDは、六代目や友右衛門ほか菊五郎門下の若き熱が伝わってくるような、名盤中の名盤である事は確かです。何と言っても「二長町時代」の菊五郎ですからね。

08年3月15日に神保町三省堂の自遊時間レコード社にて、富士レコード社主催で蓄音機の名機による歌舞伎を中心としたSP盤鑑賞会がありました。
たびたび紹介している邦楽コレクターの関川勝男氏が所有するSPの逸品ばかりで、100人ほどの聴衆はなかなか聴くことの出来ない貴重音源と、彼の解説に心ときめかしました。
その上演リストを見て日本ウエストミンスター株式会社の清水秀雄氏が、「これほど貴重盤があるのならば」とCD化に興味を持たれて事は動き出したと聞いています。

清水氏から貴重音源の協力を頼まれた関川氏は、はじめ五代目歌右衛門の「勾当内侍」がようやく揃ったので、「桐一葉」「先代萩」「沓手鳥孤城落月」と合わせてオールスター勢ぞろいCDを考えていました。
それらには羽左衛門をはじめ、中車、三津五郎、時蔵、友右衛門、さらに源之助まで顔を揃えているので「天皇」歌右衛門を中心に多彩な役者の声を聴くことが出来るからです。

それで出ていても資料的価値は高いものだったと思いますがが、昨夏、東京文化財研究所で今回収録されたSP盤が見つかり、六代目CDへと企画変更。
雑音がひどかったので保存状態の良いものを揃え、ノイズ処理の後CD化されました。

全てニットーレコードで、各盤の所蔵は下記のとおり。
○青砥稿花紅彩画(レコード番号 0567~0569)0567:関川勝男 0568~0569:文化財研究所
○神明恵和合取組(レコード番号 0564~0566)関川勝男
○梅雨小袖昔八丈(レコード番号 0561~0563)文化財研究所
○曽我綉侠御所染(レコード番号 0558~0560)関川勝男

清水氏は日本コロムビア(株)にいた方ですので、流通の事情もあって発売元がそちらになったのでしょうが、販売数の予測から六代目が第一弾に選ばれたのではないかと思います。
このCDの売れ行き次第で、他の名優たちの音源が復活する可能性があると期待しています。
過去にもLPにまとめられたSP音源のCDはあって現在でも入手できますが、これほど貴重性を感じさせるものは少ないですね。
復刻するのも企画次第、ということでしょう。

関川さんは七代目梅幸や現三津五郎、延寿太夫らと親交が厚く幕内では知らない人がないほどで、芝居関係の音源コレクションだけでなく情報も大変なもの。
新国劇70年祭や新派100年蔡に資料提供し、そこでは依頼され口演するほどの芝居通です。
富士レコード社のレコード部部長だった一瀬さんと共に、芝居のことを役者さんにも情報提供していました。
芝居の音盤関係ならば分からないことはない、と言っていいでしょう。お二人がいなければ聴けていない音源が多数あるので、感謝以外のなにものでもありません。

今後、SP盤復刻がシリーズ化され、五代目歌右衛門など名優たちの声が聴ける事を願っていますが、一番望むのはもちろん、十五代目羽左衛門の貴重音源が綺麗にCD化されることです。

六代目尾上菊五郎 歌舞伎名場面集
六代目尾上菊五郎 歌舞伎名場面集

  • [53]
  • ル・ジャンドル家の人々 その六

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 1月29日(土)02時54分15秒
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ル・ジャンドルは朝鮮に移住後数回東京に来ていましたが、明治30年、羽左衛門と親子の対面をしています。
しかし、それに先立ち家橘は母 絲から事の真相を聞き、愛子と兄妹の引き合わせがなされていますのでそちらから。

明治30年5月、羽左衛門24歳、愛子17歳の時、料亭「八百善」で人払いの上、兄妹の他は絲、とみ、愛子の乳母いく、だけの面子で事の仔細を聞かされます。
羽左衛門はともかく、愛子は
「母の友達の話やなんかで、役者社会の裏のうらまで、…その汚らしさをよく知つていましたから、…おまけにあの人、おそろしく淡白な男でして、…愛想つ気がないから、…嬉しいどころか、いやなくらゐでした」
お姫様の血を受け継ぐお嬢様は、照れがあったのかお年頃だったのもあってか、若手では人気随一と言われていた家橘といきなり兄妹と言われて戸惑いがあったのでしょう。

明治30年家橘は10,11,12月と休みでこの3ヶ月間のことだと推測されますが、ル・ジャンドルと椿御殿で親子の名乗りとなりました。
副島、大隈、雨森と杉山という若い通弁か加わり、御宸筆「善」を奉じた二階の広間での対面です。
この時ル・ジャンドルは通弁を使い、フランス語で録太郎へ次のような教訓を与えます。

世に芸術ほど尊いものはないのだから、俳優(わざおさ)であることを恥じる必要はなく、慎みと努力、誇りを忘れないことである。
団十郎や菊五郎の様になろうと考えるのでなく、自らの天分のあらん限りを上手に育て引き伸ばしていけばいいのだ。
そこにはおのずとよき芸術が生まれ、やがて日本の花とも称えられよう。

わざおさの わざよ尊しさづけましし 神の心のままなれとのみ

絲は読み遺しています。奇しくもル・ジャンドルが言ったように歌舞伎史上最大の「華」となった羽左衛門は、この教訓を身に刻み込んだのだと思います。
この時に撮影された記念写真が残っていれば、大変貴重な記録となったのですが。
半日だけの親子兄妹の睦み合いの後は他人に戻り、一生涯人目にそれと見破られるような軽率は慎まなければならない、との言葉を忠実に守り通した一同ですが、羽左衛門はル・ジャンドルの椿御殿滞在中に数回父の元を訪れていたようです。
それから4,5日してル・ジャンドルは朝鮮に戻り、この時が最初で最後の対面となってしまいます。

明治32年9月1日、李王家が催した彼の誕生祝賀会から戻ったところで、シャンペンを飲んだ直後に倒れます。そのまま帰らぬ人に。70歳でした。
死因は心臓麻痺、とされましたが、通弁の杉山が遺髭と一緒に持ち帰ったグラスの破片からはある猛毒が検出されたとか。
しかし迂闊に口外すべきではないので公式発表どおりとしておく、と弴さんは結んでいます。
京城郊外李王家の墓地がある外人墓地に埋葬され、その十字架には以下の墓碑銘が刻まれています。

Charles W. Le Gendre
Brevet brigadier general united statcs Army
Adviser to the Imperial Houshold Department of the Korean Government
Died at Seoue. Sept., 1, 1899  R.L.P.

その後明治35年に愛子は関屋家に嫁し、37年3月12日には敏子が、大正4年3月27日には喜美子が生まれています。
絲は敏子が音楽的才能を示すことが自慢でしたが、動脈瘤と思われる症状の悪化により大正2年2月2日、58歳で亡くなります。
椿御殿に普通の装をさせた看護婦を3人昼夜附き切りにさせていて、羽左衛門が飲ませた末期の水を「あゝ、おいしい。勿體ないよ、坊つちゃん」が最後の言葉になりました。
毎夜、夜更けて飛び込んでくる羽左衛門が「おつ母さん」と思わず呼びかけたのに対し、最後まで「坊つちゃん」で通したのですから、ル・ジャンドルの言葉をいかに大事にしていたかが分かります。

間もなく都新聞が「市村羽左衛門は池田絲の實子なり」と19日間に渡って破抜きを連載したのも、付き添っていた看護婦から漏れたのだろうということです。

さて「ル・ジャンドル家の人々」は関屋愛子、関屋敏子、野口喜美子のその後がありますが、前出のレスも書きましたし、「大分長く饒舌ったんですから、一寸一休みさして貰って跡は明晩の前講てえ事にしませう。」


  • [52]
  • ル・ジャンドル家の人々 その五

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 1月27日(木)23時56分41秒
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坂東家橘は養子をむかえたことを非常に喜びました。
明治13年4月1日から5日間にわたり、新富座関係者や役者ほか知己の者を三百人ほど本材木町の自宅へ招いて盛大な会席料理で御馳走し、贔屓先には柴田是真筆の扇に赤飯を添えて配るなど、当時稀にみる華やかな身祝いをしたようです。

録太郎が養子になったのは5歳、明治11年ですから、これは市村家の嗣子として「竹松」を名乗らせることを決めた祝いでしょう。
2年あまり相応しい資質があるかも含めて様子を見られていたわけで、将来継がせる「市村羽左衛門」は座元の名でもあり歌舞伎にとって重要な名前ですから当然ですが。
ちなみに市村の家では男の弟子には坂東を、女形には吾妻の姓をつけるのが定めになっていて、直系のもの以外「市村」は名乗れないと羽左衛門本人が語っています。

養父初代坂東家橘は十二代目市村羽左衛門の三男で五代目菊五郎の実弟、幼名を竹松といい、明治元年8月14日十四代目市村羽左衛門を襲名。
明治3年8月5日の中村座市村座合併興行から市村家橘を名乗ります。市村座の負債と太夫名で他座の舞台へ出ることを憚った模様。その後羽左衛門と家橘の名を何度も替えていて、混乱するほどです。
込み入った改名劇から、市村座の嵩んだ借金のため相当行き詰った状況だったと思われます。

翌明治4年1月からそれぞれ単独の興行になったので羽左衛門に復帰。3月の守田座市村座合併興行でも羽左衛門を名乗っています。この月17日から4月2日までは守田座、3日から楽の21日までは市村座でふたを開けたためかもしれません。(番付・歌舞伎年表では3月18日から)
伊原敏郎の「歌舞伎年表」では4月4から市村座となっており、5日は並木出火で休みとし、6日返り初日。23日大風雨で休場、24日限り。

さらに9月興行では座元で羽左衛門、役者としては再び家橘に(番付に記載)。11月6日からの市村座中村座合併興行(年代記ではここで羽左衛門から家橘となると記載)。

歴代の負債が積み重なり明治5年に市村家が市村座の興行権を失い、正月17日から村山座として劇場が改まると親戚筋の村山又三郎が太夫元に代わり、債務から免れると同時に坂東姓を使い始めたようです。
(「舞臺のおもかげ」では明治7年11月18日改名と記載)

櫓絡みのごたごたを避けるためだったようで、明治8年3月中村宗十郎と共に大阪中の芝居へ。5月には宗十郎一座で京都四条北側芝居に出演、その後は大阪に戻っています。
岡本起泉「澤村田之助曙草紙」によると、坂東家橘がすでに両足を失っていた田之助と合同したのは明治8年7月大阪道頓堀中の芝居で、劇場から高い給金で紀伊國屋への出演依頼があり下阪し、中村宗十郎や市川九蔵(七代目團蔵)、高砂屋福助(二代目中村梅玉。『大梅玉』と呼ばれた三代目の養父)等と一座して大変な人気だったと記されています。
田之助の錦祥女に家橘の和藤内、宗十郎の甘輝。

10月と11月の中の芝居も田之助と一座。この二人で大阪とほぼ共通の役者が活躍していた京都にも廻っていて、「傾城廓船諷」「明烏積白妙」「国性爺合戦」「誰先斗書賈諳誦」が出された明治9年3月四条南側の芝居に出演しています。(近代歌舞伎年表京都篇1)
「明烏積白妙」は「明烏花濡衣」のこと。山名屋の段を田之助・家橘の浦里時次郎で京都御目見得としたものでした。
この狂言が後に梅幸・羽左衛門で演ぜられ大変好評だったのも、父の芸風をものにしていたからだと思います。
家橘帰京の記述が年代記では明治11年4月20日春木座「十二時曽我本説」の十郎等を勤め、評判殊によし、とありますから4年間の上方で和事味に磨きをかけて帰って来たたのでしょう。

その後、竹松は厳しい役者の修行に明け暮れることとなります。
朝六時に起こされパンをかじりながら稽古場をはしごするのですが、養父家橘がやかましかったので休んだ事がなく、その頃の役者の修行はかなりきついものだったようです。
最初三味線は養母とみに教わり、琴は山田流の中許し、下方は弟子の吾妻市十郎、踊りは花柳壽輔・同勝次郎・藤間ふぢの三軒に通っています。
合間には鉄砲洲にあった「鈴木学校(現在の中央区湊一丁目七番)」で学んでおり、五代目歌右衛門もここの出身。
「羽左衛門伝説」では「泰明学校」に籍を置いていたとあるのですが、羽左衛門本人は明治四十一年一月号の演芸画報「名家実相録」で鈴木学校と語っています。

また河合武雄著「女形」には「羽左衛門氏と私とは、小学校友達なのだ。これは『思ひ出すまま』のはじめの方に書いたが、悪戯盛りの頃、羽左衛門氏と私は、そのころ京橋柳町にあつた井上小学校で机を並べた生徒だったのだ」とあります。
羽左衛門と河合武雄は昭和14年7月歌舞伎座「三味線やくざ」で唯一度の共演を果たしていますし、そのきっかけは同級生の二人が「いつか二人で同じ舞台に立とう」という約束だったと他でも書かれていますから、羽左衛門は学校も掛け持ちしていたのでしょうか(?)。
この辺りは今後も調査が必要です。

明治17年12月1日、家橘は竹松の本名を戸籍上市村録太郎と改め、戸主として市村家を相続させます。
そして妻とみと共に浅草象潟町(さきがたまち)にいた五代目坂東彦三郎(通称彦旦那)の未亡人・坂東わか方へ夫婦養子の願い出をし(坂彦の死籍相続は田村成義著/芸界通信無線電話では10月18日)、竹松宅となった元材木町の家に寄留するという形をとりました。(舞臺のおもかげ)
これには少し驚かされますが、自分の籍を抜いてまで竹松を市村の当主とした家橘は竹松の才能を見抜いていたと思いますが、歴代の借金が嵩んだ櫓の問題から身をかわす考えだったのかもしれません。
ですからこの時まで録太郎は市村家の「芸養子」という形になりましょうか。

絲が竹松を我が子ではないかと気が付いたのは、明治17年5月新富座で団十郎の「助六」に「茶屋廻りの橘の竹」で鉄棒引きに出ていたのを観た時、と愛子に語っていました。
義姉たまの輿入れ先、生駒男爵が芝居に金をつぎ込んでいた事から初日、中日、楽日と絲は招待されており「ひと目見るなりはっとした」ようで、それで市村とみに養子縁組みの経緯を確認したというわけです。

ル・ジャンドルは明治27年6月歌舞伎座、副島、大隈、陸奥から観劇に招かれた時「わが実子に間違いなし」と認めたと言われています。
その月は15日を初日に団十郎、新蔵、猿之助、八百蔵、松助、市蔵などの顔ぶれで、家橘-録太郎は「忠臣蔵」力弥「勧進帳」亀井六郎を勤めています。
他には「二人道成寺」「二人袴」「人間万事金世中」という盛り沢山な芝居でした。

我が子と分かってからは竹松を同年代の役者の子供達(栄三郎、丑之助など)と共に椿御殿へ遊びに来させ、後々人目に付かないよう竹松を裏から支えていたようです。
明治14年8月23日には、妹愛子が生まれています。

明治22年2月11日の紀元節を期して大日本帝国憲法が発布されますが、ル・ジャンドルはこの年、朝鮮李王家の賓客として京城の皇居内宮邸に入りました。
この朝鮮行きは枢密院議長だった伊藤博文からの要請とされていますが、日本政府内に彼を「外交の恩人」とするのを快く思わなかった輩がいて、「数々の御功労は拙者にて譲り受ける」と言わんばかりの裏工作があったと弴さんは推測しています。
利用価値の薄れかかった潮時を外さず、公文書からもほとんどその名を消し去って、存在すらなかったように仕組んだものがいたのでしょう。

「羽左衛門伝説」の1/3以上を使ってル・ジャンドル関連の話を扱っているのも、我が国への功労者である彼の業績が不当に消されてしまった事に対する弴さんの「義憤」が多分に含まれていたためだと思います。

明治26年3月17日、養父坂東家橘が腹膜炎の悪化から47歳で帰らぬ人となります。
危篤の報を受けた兄五代目は、歌舞伎座で「東鑑拝賀巻」に出演中でしたが「公暁禅司」の拵えのまま本材木町の家橘宅へ駆けつけました。
公暁禅司は真っ赤な衣に袈裟をかけた上人姿の場もありますから、もしその拵えで家橘邸を見舞ったとしたら、竹松や坂東家の人々、主治医の名倉医師もびっくりしたことでしょう。
危篤とは言え家橘は未だ亡くなっていないのですから、お坊主さんの格好をした五代目が血相を変えて飛び込んできたと想像される情景を思い浮かべると、不謹慎ながら吹いてしまいました。
(「続々歌舞伎年代記」には五代目が駆けつけた時、家橘はすでに絶息していたとありますが、安部豊の「市村羽左衛門伝」には今際の際のやり取りが記されているので、この件はそこからの連想です)

「先生、かまはねえから、横つ腹をえぐつても、もう一度口を利かせておくんなせえ」
弟が事切れた後で主治医に懇願していますが、田村成義がその場に居合せ「可笑しくもあり、哀れにも感じ、思わず嗟歎した」そうです。五代目は嗣子の竹松を近くに呼んで、言い渡します。
「おらァ家橘と呼ぶ奴がそばにゐねえと心細くつてならねえから、今日にも手前改名しろ」
「貴様が以降の心得は三ツある。往来をする時竹松が通るといわれるようじゃあ不成功だ、家橘が通るといわれれば中成功、ヤア市村が通るぜといわれりゃア成功の大きなものと思い、なんでも勉強しねぇじやアいけねえぜ」
有名な五代目の「親の名跡を継いだあとの心得」です。

羽左衛門は後に街行くだけで「市村だ橘やだ」と騒がれるようになりますので、伯父さんの言いつけを守ったことになります。
尤もそうなろうと思っても、なかなかなる事はできないのですが。実の父や伯父さんの言う事を守る素直さと、体現する実力があったということでしょう。

団十郎が孤児となった竹松を不憫に思い、菊五郎に交渉して自分が引き受ける事にしたのは養父家橘と至って仲が良かったためもあったでしょうが、自分に通ずる芸筋と意気を持ち合わせているのを分かっており、「十代目」と噂もあった門弟の五代目新蔵の目の症状が悪化していたのもあって「あるいは…」と考えていたのかもしれません。

裏話的な情報満載の田村成義「無線電話」で菊五郎があの世から喋っている体で、「あれは堀越が頻りに欲しがっていたのです」とあるのですが、実際に数年後贔屓連の後押しもあり、団十郎の次女扶枝子(市川紅梅)を家橘に娶わせるということで、市村家・堀越家・寺島家の間で話し合いが持たれました。しかしそれは羽左衛門本人が断ったと言われています。

「成田屋の娘をもらって、成田屋のおかげで出世したなどといわれたんじゃ、片腹いたい。悪いけどこの話はなかったことにしてくださいませ」

彼は自分の事に関しては、ありのままを話して聞かせる人だったので言葉のとおりなのだと思いますが、もしも扶枝子をもらっていたら「十代目団十郎」という話も出るでしょうし、そうなったら市川家の数多いる門弟達(かなり口煩い古株も多かった)との付き合いも変わらざるをえませんから、その辺りが面倒に思った部分もあったのではないかと推測しています。
「羽左衛門のあとに羽左衛門なし」
私は羽左衛門という名前は、彼にぴったりの名だと思っています。

この月竹松は共に市村座に出演していましたが、すぐに五代目菊五郎と四代目芝翫の口上で二代目坂東家橘を襲名します。
「大納言」「和事師の開山」と呼ばれ、団菊左の次に指を折らせたといわれる初代「坂東家橘」の死から4ヵ月後、7月14日初日の歌舞伎座で市村家橘を襲名。
団菊左の口上で「大晏寺堤」春藤新七、「榛名梅香団扇画」おきわの二役を勤めました。

写真は明治四十一年一月号の演芸画報。坂東家橘に抱かれた竹松は、養子になってまもなく撮られたものではないかと思います。
下は明治26年7月歌舞伎座での市村家橘襲名狂言「敵討襤褸錦」大晏寺堤の場、春藤新七。


  • [51]
  • ル・ジャンドル家の人々 その四

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 1月11日(火)01時51分39秒
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絲は生んだ後では御用を果たした、として自害するつもりでしたが、ルジャンドルの軽い冗談まじりの一言が男子出生の場合、その子共々命を絶つ心算になりました。
「絲さん、無理な註文だけれど、ならば女の子が生んで欲しいね」
男の子の躾、教育は多忙な自分には難しいと考えての一言だったようですが、絲には応えたのでしょう。

しかしお腹で育っていくうち母性愛が目覚めるのは当然のことです。
義姉たまと池之端の和田直は一中節稽古の朋輩であったため仲が良く、たまから「口が堅い人」と聞いていたので、生み月になって直へ頼みごとをします。
「もし生まれてくるのが男の子だつたら誠に困るによつて、藁の上から引き取り生涯自分の子として育てゝはくれまいか」

主人同座でも男客の前にはめったに姿を現さなかった絲ですが、女友達は大歓迎で会食や芸事など賑やかな座敷は好きで陽気に生まれついていたようです。
男子禁制の椿御殿には魚河岸の大問屋「山庄」の大女将が足繁く通っていたとか。
楽隠居の女将は絲と「うま」が合う仲ででした。梨園にも顔が利き、後に羽左衛門とお鯉の縁談を取りまとめたのは山庄です。
他には五代目菊五郎の妾で六代目を生んだ秋山ぎんなどにまじって、坂東家橘の妻市村とみが常連として顔を出しており、山庄もそうですが何か因縁を感じます。
もちろん絲も市村とみもその当時は、お互いが羽左衛門の母となるのは夢にも思わなかったことでしょうが。

和田直は下谷西町の箔屋・和田家の養女で、原田幸次郎も一時和田家の入り婿として直と夫婦だった時期がありましたが、女出入りがあって離縁されたと言われていてます。
池之端にあったのは和田家の控屋で、幸次郎は直とここで暮らしていたようで、録太郎とはどの位一緒だったかも定かではないのですが、後に父と名乗り出て羽左衛門を困らせています。

この二人が羽左衛門の生まれた時に「金の伸棒を6本盥に入れ産湯を使わせた」という逸話を作ったわけで、この金の伸棒は絲が嬰児を引き取らせるに当たり、直に銀やダイヤモンドなどと一緒にくれてやったもの。
直はこの時、不義の末に懐妊してお腹が大きく、そのお相手はなんとピットマンなる外国人。11月5日に生まれた子供はすぐにその外国人の手元に送られたようです。

明治7年7月1日、絲は男の子を出産し、命名の遑(いとま)もなく三日目の夜、馬丁の田中梅吉なる者が抱えて池之端へ届け、和田家では11月5日に直が出産するまで人知れず録太郎を育てていたことになります。
表向き羽左衛門の誕生日が11月5日なのは、こういう経緯があったからですね。

出産前後は多忙だったル・ジャンドルが椿御殿へ顔を出すと、堅く他言を禁じ、永久に縁切りを条件に他家へ出してしまっていたので、その子の顔も見ていないことになります。
しかしル・ジャンドルは深く咎めなかったのが、絲の歌から伺われます。

いとし子を 死すべく捨てしわが胸を ふかく汲みにし君の言の葉

親子ほども歳の離れた絲に対してル・ジャンドルは慈愛を傾け、絲、第一と考えていたのでしょう。この歌から彼の器の大きさを感じます。

5歳まで和田夫婦は録太郎を育てますが(一説には3歳)、これも一生口外しない約束で五代目菊五郎の実弟、坂東家橘へ養子に出します。
その縁組を取りまとめたのは屋号を「大みつ」、浅草の酒屋で比企新三郎という富豪。村山座の金主でもあり五代目や家橘の贔屓で、後に録太郎の借金の始末をつけたり等目をかけていた人物。
劇界に顔の利く所謂上草履組。この経緯は絲が直接、市村とみから聞き出したようです。

ここにようやく後に天下の「十五代目市村羽左衛門」となる「録太郎」登場となったわけです。
写真は関屋家秘蔵の一枚。家橘時代と喜美子さんから聞いています。


  • [50]
  • ル・ジャンドル家の人々 その参

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2011年 1月 7日(金)01時20分31秒
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副島邸でのル・ジャンドル将軍歓待の宴席で顔を合わせた二人ですが、お目にとまったのが絲と見たお歴々は、彼に打診をしてみると満更ではないながらもこう答えます。
「武士たる者の娘であるならば、拙者、宿の妻に申し受けるが、素性の知れぬ賤女を妾などに致さう所存、毛頭ござらぬ」
弴さんの翻訳による武家言葉が記されていますが、立派な武士の返答です。

絲の素性を調べ春嶽候ご落胤と分かり、将軍も大いに満足。養父池田兵衛に身請けの相談をしますが、仰天したのは当然で、念のため当人の耳に入れると姫君は激怒します。
「何を仰有る、穢らはしい」

副島と大隈二人がかりでの膝詰談判になりますが絲の気持ちは揺るぎもせず、必死の説得となります。
「天子様のおんために、一命を捧げ奉る心はないか」
絲はその心はあるので、今ここでひと思いに死なせて欲しい、との決意を伝えました。

春嶽候奥方にすまないと自害するほどの母の気性を引き継いだのか、絲は拒みます。そこで母の自害が、
「『これにて御用を果たしました』と申してからの自害であるならば今ここで、汝自ら殺したとてなんのお役に立つ」
とたたみ込み、身請けを本人に認めさせます。

絲はその代わり一つ願いを聞いて欲しいと二人に返しました。
「わたくしめも母同様、御用を果たしましたる上からは…」
死を願い出るのです。無理往生を迫った二人も、その申し出には感服の他ありません。
「さすが春嶽候のおん血統(ちすじ)」

副島は「貞操完きこと日本婦人の鏡とす。李将軍の正妻と認む』の一礼を与えていますが、ル・ジャンドルと絲の華燭の典(結婚式)は記録が何も残っておらず、外国人との婚嫁は許されていない明治5年当時ですから、その禁が解かれた明治6年になってからのようです。
大隈重信の義妹として同公爵家よりの輿入れとされ、明治大帝の思召しによって下し置かれた、麹町區霞ヶ關1-1の南角、後に外務大臣官舎が建った所にあった洋館がル・ジャンドル邸で、式はそこで挙げたのだろうと弴さんは推測しています。

明治5年といえば新橋-横浜間の鉄道開通や、大火による銀座煉瓦街の都市計画が始まるなど「開化」と言われる変化の時代真っ只中でしたが、この年ようやく人身売買の禁止となったように旧弊が依然残っており、開国是非の論もまだ乾ききらない時期でもありました。
12月3日には太政官布告によって太陽暦を採用しています。

一般女性が外国人を忌み嫌うことは大変なものだったようで、絲は当時の心境を和歌にしています。

御國のため けふこそ死出の旅の路 はれの車のきしり悲しき
なるかぎり 心のかぎりつくしなむ たとへ命のつなはきるとも

これは想像ですが、母自ら命を絶った形見の短刀を懐に忍ばせていたのではないでしょうか。
輿入れが死を覚悟してだったのには改めて驚かされます。そういう時代だったとはいえ、彼女の想いには憐憫の情を持たずにはいられません。
椿御殿へ移ったのは絲が懐妊し出産に備えてのことで、羽左衛門の誕生は7年7月1日ですから、6年の11月から12月、或いは7年になってからかもしれません。

「わが一身を犠牲に供して」嫁した絲ですが、一旦妻となったからには大和撫子たる「貞」を貫くことになります。

日の本の 女(をみな)のほこり貞といふ 文字はさゝげて死ぬべかりけり

それに対しル・ジャンドルは寛大で慈しみ深い愛情を注ぎ、「並びなき器量」と尊敬に値する人柄に絲の心の中の国境は薄らいでいくのでした。
そして羽左衛門となる子を授かるのですが、その時分の彼女の心境は[13]でリンクを貼った秋山さんのページに紹介されているので、ここではどのような経緯で養父 坂東家橘が録太郎を養子にしたかを記すことにします。


  • [49]
  • ル・ジャンドル家の人々 その弐

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2010年12月26日(日)20時38分1秒
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父 チャールス・ウィリアム・ル・ジャンドルは1830年8月26日、フランスのOullinsで隠棲中の名族とされるJean Francisを父に、Aricie Louise Marie Gertrudeを母として生まれました。
パリ大学卒業後アメリカに渡って帰化し、南北戦争で北軍に加わりグラント将軍(後のグラント大統領)指揮下で活躍。
戦闘で顔に怪我を受けたため写真のような髭を蓄えるようになりますが、数々の功績から昇進、「羽左衛門伝説」では「陸軍特進代将」とあり、ゼネラル官に任じられています。

1866年12月にモアイ領事として赴任しますが、すぐに生蕃人(未開拓地に居住する台湾人)によるアメリカ商船襲撃「ローヴァー号事件」がおこり、その解決に奔走し困難とされていた生蕃と白人の条約定結を達します。
他に台湾の奴隷売買禁止などの人道的実績などを残しているようです。

1872年明治5年9月、帰国途中立ち寄った日本で副島種臣や大隈、陸奥らに「末永くこの國に留まり、常に良き忠告者であって貰いたい」と熱望され、3ヶ月間の交渉の末、正式に明治大帝の誥命を受け「外務省准二出仕」となります。
池田絲との対面となった副島邸での宴はこの3ヶ月の間であったとみるのが至当と思われる、と里見さんは述べています。

二つ三つ年長の副島が自らを弟として義兄弟の杯を交わし、「國士無雙」と褒め称えるほどル・ジャンドルの器量に惚れ込んでおり、ルソンでの活躍が知れ渡っていたためか、一ヵ年一萬二千圓でのお抱えですから他の外国人とは桁が違い、いかに彼が重要人物として求められていたかが分かります。
ちなみに当時最高の太政大臣の月給は八百圓。「大帝の御寵愛のほども窺わせる」と弴さん。

明治4年に台湾で蕃人に琉球人が襲撃された事件が起こり、清国とその交渉の参謀役としてル・ジャンドルは全権大使副島を補佐し、明治6年に各国に先んじて皇帝との謁見を成し遂げ、条約批准交換および台湾支配は全土には及んでいなかったことを清国側に認めさせて、その後の交渉の道を開きます。
そこに至るには各国への交渉と調整、清国との外交に対する経験がものを言ったのは明らかで、明治大帝は功を称え「汝はよきものであるによつて、以後、李仙得の『仙』を『善』に改めよ」との詔勅と共に、「善」の御宸筆を下し置かれました。

蕃地事務局准二等出仕も務めたル・ジャンドルは台湾出兵の立役者でもあり、数々の功労により明治9年には最初の外国人叙勲として勲二等に叙され、旭日重光章を受けています。
御辰筆と副島の大書「國士無雙」は、「日本人として立派に生きて行くやう一家の守り本尊に残し置く」としてル・ジャンドルが朝鮮に渡る時に持って行く品の荷物から外されたのですが、残念な事に震災で灰燼に帰してしまいました。

明治5年12月3日を以って明治6年1月元日とする太陽暦への改暦があり、これもル・ジャンドルの助言によるものらしく、内政に関してだけでなくこの時期の外交では上記以外にも彼に関するかなり多くの事が政府記録から抹消されていて、里見さんも困惑しています。
ル・ジャンドルが我が国に尽くした功労の大半は「維新の功臣」と言われる人達の手になるものとして書き換えられてしまっているようです。

明治の元勲達が直接手を加えたとは思えず、その周りのもの、或いは「史料編纂所」関係者の独断で出来るものでもなく、やはり誰か力のある人の仕業になるのでしょうか。
弴さんはその人物の当たりを付けているようでしたが、多分あの有名な人。この辺りは同じ日本人として、なんとも恥ずかしい気がしています。

ル・ジャンドルは明治22年(一説には23年)李王家の賓客、内実は政治顧問として朝鮮に渡りますが、絲とは暗号文によるやり取りを続けていて、少なくとも4、5度は東京に戻っています。


  • [48]
  • ル・ジャンドル家の人々 その壱

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2010年12月20日(月)00時51分25秒
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大方が里見弴の「羽左衛門伝説」の要約ですが、秋山加代さんが「時代的に少し読みにくくなっている」と言っていたように、かなり話が前後する部分もあってすんなりとはいきません。

しかし、父 ル・ジャンドルと母 池田絲に関してはこの本以上に書かれたものは見当たらないので、里見先生に感謝しながら、まずは羽左衛門の母方から紹介する事にします。

祖父の「松平春嶽」ですが、御三卿の田安徳川家出身で、越前松平家の養子となった第16代越前福井藩主。
11代将軍徳川家斉の甥にあたりますから、紛れもない将軍家の血筋です。
家臣橋本佐内を使い開明派大名の中心として活躍しますが、「安政の将軍継嗣問題」で失脚・隠居謹慎、その時春嶽の号を使いはじめ、「桜田門外の変」以降幕政に復帰。
幕末四賢侯の一人といわれ、政事総裁職に就任し徳川慶喜を補佐して幕政改革をすすめました。

その娘である母「池田絲」は、慶永時代の春嶽候と腰元の間に生まれた庶子。安政3年、1856年2月19日生まれ。
お七夜に「奥方様に申譯がないから」と腰元が自害してしまったので、船方役人の池田兵衛に預けられ東京で育ちます。
横山茂助、小山田忠兵衛、田本伊助の他の家臣と共に四人で「ご落胤」をお育て申し上げるのですが、池田の名を名乗る上で藩侯からの手当ては望めません。

明治になるとこの四人で「おひい様」に忠勤を励もうにも限界があり、それぞれが「士族の商法」で生計を立てようとしましたが、うまく行くはずもなく次第に困窮していきます。
池田兵衛は酒屋「亀屋」、茂助の始めた八百屋などは袴姿に木剣をたばさみ、店先に正座していたところから人呼んで「大名八百屋」。
近所の五代目菊五郎が面白がって贔屓にしていたそうです。

池田兵衛の実の娘たまは絲と二十も歳が違っていて、深川の羽織芸者として左褄をとり、お姫様を育てる力添えをしていました。
しかし絲に養父一家や他の家臣達の苦労が分からないはずもなく、明治5年の18歳の時、
「あたしもおたま姉さんのやうに。芸者に出て働いたら、養父母の老後を、少しはお楽にしてあげられよう」
と姉たまの妹分「めだま」として堀の芸者に出るようになりました。たまは後に生駒男爵に輿入れしています。

まさにその時分、明治5年9月にはル・ジャンドルが、アメリカ領事として赴任中のモアイから休暇の帰国途中で日本に滞在していて、副島種臣の屋敷での宴に揃えられていた堀の芸者衆の中に絲がいたのです。
これがル・ジャンドルと池田絲の、運命の初対面だったわけですね。

ル・ジャンドルの「お目にとまった」のが絲だと推察した副島はじめ大隈重信、陸奥宗光らは、彼女の素性を調べ、春嶽候のご落胤と知り彼女の身請けの話となっていきます。
しかし「おひい様」で育てられた絲ですし、外人に対する偏見はとてつもない当時でしたから、スムースに行く訳もなく、お歴々の交渉は困難を極めるのでした。


  • [47]
  • ル・ジャンドル家系図

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2010年11月28日(日)11時57分9秒
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羽左衛門の家系図を作ってみました。
文章をまとめているのですが、進行中でアップすることが出来ません。

ですが、これをやっておかないと羽左衛門を巡る人々として、片手落ちになりますし女性関係にもいくことができません。
ですから先に相関図だけ上げておくことにします。
内容的には里見弴が「羽左衛門伝説」で解明しなかったら分からなかったことが多いですから、弴さんの功績は大変なものだと思います。

父 ルジャンドルと母 池田絲の写真は「羽左衛門伝説」(毎日新聞社刊)
関屋敏子と関屋祐之介は「歌聖 関屋敏子女史」より


  • [46]
  • コレクション歌舞伎劇

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2010年11月28日(日)02時27分24秒
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  ・
神戸のSP盤コレクターとして知られていた杉山幸一氏のコレクションを、デジタル化して公開しているページがありました。

http://zeami.ci.sugiyama-u.ac.jp/~izuka/erito1/tujikabuki1.html

ここは凄いですね。
新派の録音物の収集家として辻山幸一さんの名は聞いたことがあったのですが、歌舞伎もかなりのコレクションをお持ちだったのですね。
知り合いのコレクター、関川勝男さんはさすがに全てお持ちで、新派の録音を辻山さんにダビングして差し上げたことが以前の「演劇界」に載っていました。

新派のコレクションのページもあるようですが、こちら半分以上「丸井不二夫」という元新派の俳優さんからの、ダビングしたテープ音源のようですから、そこは間違えないようにしないといけないと思います。
その丸井さんにかなりの数をSP盤からダビングして差し上げたのは、前述の富士レコード社の一瀬さんと、関川さんでした。
丸井さんはコレクターでなく音源だけ聴ければ良いと言う方でしたのでSP盤はほとんど所有ではなく、このお二方から録ってもらっていたのです。

丸井さんも亡くなってしまったのは残念ですが、彼のテープ集は演劇博物館に寄贈されており、利用可能になっています。
ですが情報の研究という観点からすると、出元の記述はハッキリしておかねばならないでしょう。

これらは「恵理人の小屋」というHPの中の一コーナーですが、新派や能楽、浪曲、常磐津、長唄、清元、小唄、 義太夫等、邦楽全般、この方もかなりお持ちのようです。
一部デジタル化していて、順次アップされるようなのですが、聴いたことのないものもかなり入っていますので、有難いと思います。
ものによっては音がかなり厳しい状態なのですが、トーンコントロールでBASSを下げると多少聴きやすくなるでしょう。

冒頭にあるニッポノフォン盤「青砥稿花紅彩画浜松屋の場」ですが、ここでも羽左衛門の極め付きの江戸弁が聴けます。
その中の台詞回しはこれ以上はない「べらんめぇ」ですから、有名な場面も一味も二味も違った情緒感をもって楽しめると思います。
とにかく「気持ちいい江戸弁」で、噺家も憧れたのは無理もないでしょう。

その下に六代目の「浜松屋の場」が2つありますが、ビクター盤を聴くと多少エコーが効いているためなのか、ライブ感(と言いたくなるような)があり他とは雰囲気が違います。
「まるで新劇のよう」な感じといくつかの文献で書かれていたことは、こういうニュアンスだったのかと理解できます。
たださすが六代目、もうひとつのニットー盤では歌舞伎らしい雰囲気で録音しているので、彼はやはりどちらも出来たのでしょう。
六代目がやろうとしていた新機軸的演出は意図的に挑戦していたのが、聞き比べると分かってきます。

このページで羽左衛門に関して言えば、現在「青砥稿花紅彩画」「江戸育お祭左七」「名橘誉石切」「吉様参由縁音信」「假名手本忠臣蔵」「勧進帳」「安宅勧進帳」「神明恵和合取組」「黒手組曲輪達引」「桐一葉」「天衣紛上野初花」「三人吉三巴白浪」が聴くことが出来ますから、まさに宝の山。
他の名優たちの録音も必聴です。

写真はどちらも昭和10年3月歌舞伎座、五代目三十三回忌追善興行大切「弁天娘女男白浪」。
羽左衛門の弁天小僧菊之助、日本駄右衛門は幸四郎、南郷を吉右衛門でしょうか。

舞台の写真からは目元に、下のものは全身から堪らない色気を感じます。やはりこの人は特別。
幕末にこの狂言が初演された時、十三代目羽左衛門だった若き五代目菊五郎が振りまいたと言われる「弁天」の妖しい魅力は、このようなものだったのではないかと想像してます。
ただ羽左衛門はそれをある意味昇華した形で表していているので、いやな臭みを感じず爽やかと言っていい色気が、写真ですら漂うのでしょう。
ブロマイドの裏に「伯父が形見の振袖を 着かざる曠の花見吋」と書き込まれていました。


  • [45]
  • SP盤 お祭佐七

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2010年11月28日(日)02時25分55秒
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コロンビアレコード S369/138520 昭和9年7月
坂東秀調の小糸、市川左升の伴平。

先に紹介した「SP盤 江戸育御祭佐七」とは別の一枚もの。
のっけから「今向こう河岸の曲がりっ角で」の言い回しで、鳥肌の立つほど素晴らしい江戸弁が炸裂します。
勝手な思い込みから想い人に裏切られたと勘違いした江戸っ兒が、頭に血を上らせてその人を手にかけてしまう「殺しの場」ですが、羽左衛門の歯切れのいい江戸弁で、無茶苦茶な話の筋も気にならないぐらい高揚感に支配されます。

中ごろに「当たりめぇよ。こんな事をされてな、怒らねぇ唐変木がどこの国にあるんでぇ」とありまして、初めてこれを聴いた時はあまりにもその台詞回しの良さに狂喜したものです。
一時期、60分テープにこれだけ繰り返し録音し、通勤中にウォークマンで何度も聴いていました。
この部分は前出の四枚組みのものより、出来はいいでしょうね。何しろ勢いがあって、これぞ江戸弁と言った感じ。かっこいいです。

二枚目ですっきりとした容姿でありながら、江戸前の啖呵が極まる人は他にはありません。
あえて良しと言うレベルで引き合いに出すとすれば「太陽の人 錦ちゃん」、中村時代の錦之助しかないでしょう。
映画俳優になりますが出が歌舞伎の名門でありますし、錦之助も二枚目系でありながら「一心太助」などで啖呵がよかった。
彼の立ち姿の美しさは他の俳優とは一線を画しており、少なくとも「中村錦之助」が何をやっても清潔感を漂わせていたのは、羽左衛門を引き合いに出させるほどの姿勢の良さがそう感じさせていたのだろうと思います。
なにかと話題の多い海老蔵も羽左衛門が好きだそうですが、真似て自分のものにしてもらいたいですね。

この「江戸育お祭佐七」は「心謎解色糸」を脚色し、五代目菊五郎へ書き下ろしたかたちの狂言ですが、姿も声もすっきりの羽左衛門の佐七は「羽左衛門のような役者はもうでないから…」ということを最も感じさせる役だったと思っています。

昭和11年7月歌舞伎座。これぐらい「喧嘩かぶり」が様になる人もいないでしょう。


  • [44]
  • 「ってあんでぇぃ」

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2010年11月13日(土)17時46分51秒
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先日TVで「浅草の43人」という番組をやっていましたが、どんなものかちょっと興味があってチャンネル合わせたのですが、面白くて最後まで見てしまいました。
生まれも育ちも浅草の人々にいろいろインタビューして「江戸っ子とは」どういうものか探っていく内容で、職人や飲み屋の女将、鰻屋の大将などが「ネイティブ」の東京人「らしさ」を感じさせてくれて嬉しくなりました。
市井の人々には東京の下町の、「江戸っ子」のにおいが残っていたのです。

その中でディレクターらしき人が東京弁っぽい言葉遣いをフレーズとして欲しがっていたようなのですが、ある人が言っていました。
「『てやんでぇ』なんか使わないよ」
それはそうでしょうね。落語じゃないですから普段の仲間同士でそんな台詞を使っても、板に付かないのではっ倒されるのがオチです。

それで思い出したのですが、私は芝居や落語の中でなく会話の中で「てやんでぇぃ」と聞いたことがあります。
しかもそれは極め付けの東京弁です。正確に言うと「極め付けの東京弁/江戸弁を喋る人が言った言葉」を思い出して再現してもらった、になりますが。

羽左衛門贔屓だった人のお宅へ録三郎さんを招いてお話を聞いた時がありました。
お酒が好きだったので何杯か勧めるうち、彼の舌は滑らかになっていましたので女性関係の話もチラホラ、他では見たことも聞いた事もない話が出はじめました。
役者として弟子として回りにいた者しか知らない話ですので、わくわくの連続です。
その時録三郎さんが羽左衛門の台詞(芝居の台詞でなく会話の言葉ですが)を聞いたとおりに再現してくれたのです。録三郎さんも流石に役者さん、見事な台詞回しでしたね。

三宅周太郎「羽左衛門評話」の中で「市村羽左衛門論」の冒頭に出てくる逸話ですから、読んだことはある内容ですが、録三郎さんは羽左に直接その経緯を聞かされた時があったそうです。

明治の終わり頃、ある有名な幹部俳優が貴婦人と関係したことが世間に知れ、一ヶ月芝居を休んで謹慎しなければならない騒動がありましたが、数日続きで新聞で叩かれた為、東京俳優組合は彼を除名するところまで話は進んでしまい、その役者は窮地に陥ります。
他の役者は傍観を決め込んだようですが、羽左衛門はただ一人、その会合でこう言い放ちます。

「何言ってあんでぇぃ!役者でもって女の一人や二人なくてどうするんでぇ!!俺ぁ知らねぇよ」

と畳み込むように怒鳴ってそっぽ向いたため、それまで糾弾するような流れに傾いていた協会内の空気ががらりと変わり、その役者は除名されずにすんだのでした。
「羽左衛門評話」では「べら棒め、役者で××をしない奴があるものか。」になっていますが(××は実際にこう印刷されている)、三宅周太郎もこの件は記憶で書いていると述べていますから、録三郎さんが聞かされた「台詞」が本当でしょう。
芝居でも場面の空気をぱっと換えてしまうことのできる羽左衛門の面目躍如たるところで、その役者は大変感謝したということです。

この時のことは録三郎さんもかなり印象が強かったと思え、何度もその台詞を繰り返していました。しかし私には最初、

「…ってあんでぇぃ!」

と聞こえたのです。それは「何言ってやんでぇ」と言っていたのを「何言って」の部分が気を入れているので、明確な単語として発音されずに(或いは聞き取れずに)圧縮されてしまったのではないかと思います。
結果「てあんでぇぃ」の部分からはっきり聞こえた、というわけです。
文字にすると聞こえていない省略・短縮された部分を表すことになり、そのままだと意味が分からなくなるのでそこを補って書かなければならず、ニュアンスがうまく伝わらなくなってしまうので難しいものだと感じますね。
それも喋る本人は詰めたり略そうと考えていませんし、相手の方も会話の中で意味は分かりますから会話は途切れませんが、傍で聴く者には「てやんでぇぃ」が印象に残ることになります。

おまけに例の「ンな」や「ぅら」とかどう書けばいいか判らない捨て語がありますから、文字にするのはかなり無理が出てきます。
言葉は変化していくものですし、地元の人同士でないとこんなやり取りもしにくいですから、その辺りにもっとも繊細な方言である「江戸弁・東京弁」が絶滅寸前と言われる要因のひとつがあると考えています。
とにかくこの時、録三郎さんによって生の「てやんでぃ」の正しい使われ方を知ったわけです。

五代目志ん生の「大工調べ」の中で「あたりめぇだ、べら棒め」を「腐っちまうから、あた棒、っていうんだ」という件がありますが、カッかとしている大工の棟梁の台詞で勢いがあり、気の短さからくるもので「…てあんでぇぃ」に通じるものを感じます。
この喋りは東京生まれでもなかなか出来るものではありません。今では本職でも「ネイティブ・スピーカー」」と言える人はどれだけいるものなのか。
ちなみに志ん生や圓生の噺の「枕」に出てくる「羽左衛門」は、全てこの十五代目のことです。

録三郎さんは「羽左衛門らしいでしょ、この台詞」と愉しそうに言っていましたが、本当にそう思います。
しかしもしも、その役者が廃業していたらその後の歌舞伎も随分寂しいものになっていたでしょうから、我々は羽左衛門には足を向けて眠れない、ということになるでしょうね。

写真は昭和11年7月歌舞伎座「江戸育御祭佐七」。やはり「江戸っ兒」といえばこれが連想されますし、顔付きや姿勢に一番らしい「意気」を感じるこの写真を出したくなります。
これ、他の人がやろうと思ってもとても出来ないかたちだと思います。やっても様にならないです。
下の役者絵は「牡丹を描いた扇をひるがえしながら出て来ると、場内がたちまち神田祭りのるつぼになった」と戸板康二が書いていた「鎌倉河岸祭礼の場」の佐七。
派手で陽気で艶やかな雰囲気が出ていますね。まさに景気のいいお祭り気分。羽左の演じる本物の佐七を観て、その気分に浸りたかったと思います。


  • [43]
  • SP盤 勧進帳

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2010年11月10日(水)00時56分25秒
  • 編集済
  • 返信
 

コロンビアレコード 昭和5年1月 1枚もの 35074
ポリドールレコード 昭和7年7月 1枚もの 5062
ビクターレコード  昭和15年11月 9枚組 5834~5842

勧進帳に関しては記録映画とビクター盤が有名ですが、羽左衛門のSP盤としての録音数は以外と少ない気がしました。
富樫は明治39年11月新富座で初演後、明治40年4月歌舞伎座で、高麗蔵(七代目幸四郎)と初代猿之助(二代目段四郎)の日替わりの弁慶に芝翫(五代目歌右衛門)の義経で勤めてから、昭和18年12月歌舞伎座で幸四郎の弁慶と菊五郎の義経が最後の舞台で、全国各地で何回やったか判らないほど演じていて、満州や朝鮮でも観客を魅了しました。

「目に遮り、形あるものは斬り給うべきがもし…」からたたみ込んでいく辺りは、何度聴いても掛け値なしに鳥肌ものの興奮を与えてくれます。
羽左衛門が富樫を演じている限り、話の筋を考え合わせてもこの「問答」の部分が芝居のクライマックスになるのは間違いないでしょう。
それほど圧倒的な迫力と興奮、魅力に溢れているのです。

他の役者にはない息の長さがこの人の得意とするところで、リズムを第一にしていると思われる羽左の自在の台詞回しに聴き手は酔わされてしまいます。
レコードでこれほどいいのですから、本物の舞台はさぞ素晴らしかったでしょうね。

昭和18年12月の最後の「勧進帳」は11月から続けて上演されたもので、千秋楽に記録映画が撮影されました。
「そもそも九字の真言とはいかなる義にや事のついでに問い申さん、ササ、何と、何と。」の後の「何と」を他の録音より大きく溜め込み膨らましていますが、羽左衛門にとって最後の富樫であり、翌々年には亡くなることを知っていますからよりドラマチックに、万感積もる思いで観てしまいます。

ちなみに義経は昭和13年11月歌舞伎座と翌12月南座、幸四郎の弁慶と左団次の富樫でした。

「勧進帳」としては他に、「安宅の関」が「安宅勧進帳」としてポリドールレコード(5031~5032) から昭和6年9月に出されていて、それは中車の弁慶に三津五郎の義経です。
羽左の富樫はこちらも素晴らしいのですが、中車の弁慶は「時代物をやらせたらカスがない」だけあって、独特の良さがあります。

「富樫は意気さえ抜かなければいいのだと思っている」と初演の後に語っていて、世間では大変苦心したかのように言われたらしいのですが、羽左衛門本人は余裕で演じていた様です。


  • [42]
  • 幻の「勧進帳」

  • 投稿者:えのしま
  • 投稿日:2010年11月 4日(木)00時08分34秒
  • 編集済
  • 返信
 

倉田嘉弘さんが「日本レコード文化史」の中で東京朝日新聞と都新聞の記事から、九代目団十郎と五代目菊五郎の「勧進帳」の録音についてふれています。

明治32年5月20日の東京朝日新聞「勧進帳と蓄音機」によると、九代目団十郎は首尾よく勧進帳の舞台を勤めたことを目出度いと思い、一幕そっくり蓄音機に入れておくため共演者を築地の自宅に招いて録音をしました。
その面子は五代目菊五郎、四代目福助(五代目歌右衛門)、四代目松助、家橘(十五代目羽左衛門)、四代目染五郎(七代目幸四郎)、猿蔵、蟹十郎、新十郎、升六等。

明治32年4月には歌舞伎座で「勧進帳」が上演されており、その時のことでしょうが、家橘は四天王の亀井六郎を勤めています。団十郎:弁慶、菊五郎:富樫(初役)、福助:義経。
幕明から一同の台詞を吹き込み、酒宴に移って夜の十二時まで「盃洗に酒杯をうかべてはすすぎ合って互ひに干し」たとありますから、出来が良くて喜んだのか祝い事のように思ったのでしょうか。

その後の大正12年3月26日付の都新聞「団菊のレコードを製る『勧進帳』の吹込/堀越家の秘蔵品」では、後日談が紹介されています。

この録音は団菊が築地の堀越邸で相談し、杵屋六左衛門(十三代目、後の寒玉)と芳村伊十郎(六代目)を招いての吹き込みで、一つには長唄、もう一つには台詞を入れた蝋管の分離ものだったようです。
堀越家では家宝として桐の箱に収めて秘蔵していたのですが、この時期に平面盤にならないかと伊坂梅雪にゆだね、川崎の日蓄(日本蓄音器商会)で転写を試みました。
しかしコレクターの方によると、平面盤(SP盤)が現存していることは聞いたことがない、とのことです。
記事にも「古い蝋管として摩滅」とありますし、「鶴首の構えで毎日待ってゐる」と出来上がりの事が書かれておらず、ニュースに続報もないので失敗したのでしょう。

非常に残念です。震災前の話ですから、その蝋管は火災で焼けてしまったのかもしれません。
もし残ってるとすれば、今の技術で何が何でも録音を復活させてほしいと思います。
本物の九代目団十郎の声はぜひ聴いてみたいものです。

さて、羽左は富樫役者としては極め付けとされていますが、弁慶と義経も勤めていて、弁慶は大正3年4月の 「勧進帳三座競演」の時に二代目左團次の富樫、五代目歌右衛門の義経で初演しています。
ちなみに三座の内の他の劇場、帝劇は七代目幸四郎の弁慶、六代目梅幸の富樫と七代目宗十郎の義経、市村座は六代目菊五郎の弁慶、吉右衛門の富樫、七代目三津五郎の義経という配役でした。

この「三座競演」はそれぞれが興行の成功を確信していたから実現可能だったわけで、上野の「大正博覧会」に地方からの観光客が押し寄せると分かっていましたから、この時以外にはありえないことでしょう。
もっとも今は大方の歌舞伎俳優が松竹付きですから、絶対にないことですけど。

菱田さんの出した写真集によると「羽左衛門としては(弁慶を)喜んで演ったわけでなく、納められて詮方なく引き受けたもの」だったようで、「団菊以後」では形式だけとはいいながら、劇評家を赤坂の三河家へ招いて弁慶を演じるのはどうかと尋ね、記名投票させたことが記されています。
青々園の「見た上でなくては分からない」以外は皆よろしいとしたようで、ものに拘らない羽左が周りの反応を知ろうとしたのは、この頃まで「勧進帳」が市川宗家にとっても、歌舞伎の世界にとっても特別な出し物との認識があったためであり、彼にとってニンではない弁慶を引受けるのを迷ったからなのでしょう。

羽左衛門は小顔の上細身ですから、団十郎以降弁慶を勤めた事のある段四郎や幸四郎の見栄えと比べられるのも、はじめは嫌だったのだと思います。
しかし引き受けたからには舞台度胸は満点な羽左衛門、気の入れ様はかなりなもので、稽古には顔を出さない事で有名な彼にしては珍しく、初日前に二代目段四郎に稽古をつけてもらい、新十郎には九代目の呼吸を教わったようです。

迎えた初日にはあまりの気合の入れ方だったのか、六法の引っ込みにそのままの勢いで揚幕に飛び込み、ぶっ倒れました。
弁慶は出てからは気を抜くところがなく体力と気力のいる役で、初役の初日なので気を入れ過ぎ目一杯やってしまったのでしょう。
弁慶がきつい役である事を説明するのに「あの向うっ気の強かった市村のおじさんでさえ…」と松緑はこのことを引き合いに出して語っていますが、羽左衛門ほど気力、胆力があって動きの良かった人が倒れるのですから、大変な意気込みだったと思います。

当時の劇評には「羽左の弁慶は度胸を買い、菊五郎の弁慶は器用を買う」「羽左は勇、幸は柄、菊は形」「幸の弁慶は柄、菊のは踊り、羽左のは声」等とあり、三人三様の出来だったようです。
どの劇場も連日の満員で、三座全て観た人は結構いたでしょうが、なんとも贅沢で羨ましいとしか言えませんね。

羽左衛門はSP盤に梅幸の富樫を相手に九代目ばり(と思われる)の弁慶を残しています。
映画「勧進帳」やSP録音から、富樫=高調子、弁慶=低調子とのイメージがありますが、「高調子は団十郎。低調子は菊五郎と、昔は決まっていた」そうですから逆だったのですね。
聲色の団十郎から推測するに、この羽左衛門の弁慶は九代目にかなり近い台詞回しではないかと想像しています。

私はSP盤からの録音を編集して、弁慶も富樫も羽左衛門の「問答」のテープを作っています。
縁起のいい正月役者であった羽左衛門のこの私版「幻の勧進帳」を新年に聴いて、初詣に行くことにしているのです。
なんとも気分のいい一年を迎えられる、というわけですからね。

九代目団十郎の弁慶と五代目菊五郎の富樫。下は洒落で作ったテープの顔合わせ。大正15年2月歌舞伎座、羽左衛門の弁慶。富樫は昭和7年11月歌舞伎座。



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