teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL


変化

 投稿者:編集部  投稿日:2017年 1月14日(土)18時37分3秒
返信・引用
      第50号 「変化」  2017/01


前書き    テーマ 「変化」              竹内 一郎

 方丈記は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうた
かたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし」と始まる日本人の無常観を表
した書であるといわれている。 著者、鴨長明は隠棲し世間を斜に見たのかもしれない。
確かに戦乱、飢饉、大火、地震など天災、人災の連続した苦難の時代であった。それゆえ
隠棲したのかも。
 それはそれ、人の歴史は常に各種の困難の中ではぐくまれてきた。現在において防災技
術は鴨長明が生きたときから比べると格段の進歩をしているがいまだもって人は天災、人
災から逃れることはできない。
 彼の時代、人は天災、あるいは戦争などの人災になすすべも無く呆然と立ちすくんだで
あろう。そのなかで無常観というものが脚光を浴びてきたのであろう。しかしよく考える
と、無常とは冒頭の「」文に言い表されているとされるが、これは常に変化し定まること
のない情景を表しているだけで、この情景とその後に書かれている著者の心理状況をおも
んばかっての無常観、日本人が抱く思い入れの感情があるようである。なんとも言えない
切なさ、虚無などと表現される感情、あるいは情緒の側面があるようだ。
 それはさておき「無常観」という仏教でいう本来の意味は、それら一切の感情や情緒を
そぎ取ったところ、読んで字のごとく「常はない」ということではなかろうか。すなわち
常に「変化」しているという地球の姿を言っているのではなかろうか。鴨長明は方丈記の
書き出で無常を見事に表現している。書き出しの後に続く彼の心象風景を重ねることによ
り日本人の無常観なるものを表現した。この日本特有の無常観もまた歴史の中で特異な変
化をした無常観であろう。

 「変化」について過去二回書いてきたがこれまで取り上げた「変化」は人の心の枠外の
ことであった。しかし変化は人の心の枠の中でも常に起こっている。この心の変化する個
々の動きは多様であり方向性がないように見えるが、どうも社会という個人の集合の枠で
見ると何らかの方向性があるようだ。これが歴史の流れ、あるいは変化というものである
ように思える。第二次世界大戦後七十年が経過し、人は平和が一番大切でありその実現の
ため他人を思いやるグローバルな世界が目標だと信じてここまで来たが、このところの世
界の情勢を見ると潮目が変化してきているようにみえる。英国のEU離脱をきっかけとす
る、EU諸国における離脱への圧力、米国におけるトランプ大統領の誕生などグローバル
化に掉さした民族主義というか各国エゴイズムの昂然たる主張など今迄目指してきた価値
観の変化が頭をもたげてきたような兆候がある。おそらくこれらは世界が動乱の時代への
変化していることへの兆しではなかろうか。
 これらのことも考慮しながら「変化」を書いてみるつもりであるがわが心、常に変化し
どうなるか分からない。

353

 
 

日本語

 投稿者:編集部  投稿日:2017年 1月14日(土)06時59分57秒
返信・引用
        第49号 「日本語」  2016/10


         



前書き テーマ[日本語]                 神野 佐嘉江

 優れ物と紹介されて「まあ、かわいい」。優れ物が切り子細工であろうが、小物バッグ
であろうが、寄せ木細工であろうが、その一言で、後の言葉が続かない。最近の若い女性
の感想の述べ方である。テレビで見るとこんな人が多い。後に続けて例えば、「鋭い光り
が入り乱れてきれい」とか、「色合いに他では見られない渋みがある」とか、「よくもこ
んな狭いところに色とりどりの幾何模様が産め込まれているものだ」とか、言えないもの
か。皆さんにおかれても、もどかしい思いをされたことは一度や二度ではないでしょう。

 上は日本語の廃れについて述べたものですが、逆に日本語の豊かさについて感じ入った
ご経験もおありでしょう。あるいはまた方向が違って、日本語の歪みなどについての体験
をお持ちかもしれません。日本語にまつわる御体験あるいはご意見をお聞きしたい。

351

 

そよぐ

 投稿者:編集部  投稿日:2016年10月31日(月)07時30分45秒
返信・引用
       第48号 「そよぐ」  2016/08


              


前書き テーマ[そよぐ]                       古賀 由子


昔からこの「そよぐ」と言う言葉の語感と優しいイメージが好きだ。そよ風のそよ。
穏やかな日、木の葉が気持ちよく揺れ動く感じにぴったりの言葉だ。「風にそよぐ葉」
いかにも気持ちよさそうだ。軽やかな気分になる。
これに対して「揺らぐ」という言葉がある。同じように物或いは人の心がパワーバラ
ンスの変化により微妙に揺れる状態をさす言葉のようだが、どこか不安感、不安定感が
つきまとう。一方この揺らぎはむしろバランスをとる貴重な現象でもあり、次なる新た
な世界を作り出す前提にもなっているような気もする。

「そよぐ」と「揺らぐ」の違いについて考えてみた。
「揺らぐ」は他からの要因はあったとしても、あくまでも自らが動き出してゆらゆらす
る。「そよぐ」は主体がないまま、自然(気)に身を任せ、自然と同化して動いている
姿のように思える。「そよぐ」という言葉の心地よさはそこから来ているのではないか。
 物体、人間の場合は心も含めて、自己の特性を主張すればするほど他の物体と衝突が
起きる。それが揺らぎとなる。特製を無にして自然のなすがままに任せる姿が「そよぐ」。
 広辞苑で「そよぐ」を調べてみて驚いた。漢字表記で「戦ぐ」とある。戦いのイメー
ジとは全くかけ離れているのに。なぜこの字を当てたのか分からない。宿題としよう。

 ネット辞書を調べていると、「戦ぐ」の他に「」(そよぎ)が出て来た。
意味は
  1.ブラフマン、サンスクリットの、仏教に関する、清浄な、バラモンの、
  2(と通じて)木が風を受けるさま、風が木の上を行くさま、(芃と通じて)草
   木が茂る。
は「そよぐ」風景そのものを漢字で表してくれているではないか。「戦ぐ」より何倍
も相応しい。そよぐについての私のイメージは1.の意味と深い所で通じているような気
がしてくる。調べてみたい。

注)は掲示板では表記できないため画像を使ったため、見えづらい。「林」の下に「風」と書く。

339

 

心もよう

 投稿者:編集部  投稿日:2016年 8月10日(水)13時42分5秒
返信・引用 編集済
       第47号 「心もよう」  2016/05

              



前書き テーマ[心もよう]                     古賀 和彦


 事物の数量を表すものを基数詞といい、その数は「ものの数え方・助数詞・6000」とい
うwebの表題の6000はいささか多すぎるが、重複を除いても数百はありそうだ。
 犬猫の一匹、うさぎ一羽、和歌・短歌一首、宇宙船一隻、戒名一諡(し)等々。日本語
における季節や自然を表す歳時記に書かれた言葉や物の数え方を表す数詞は、世界の中で
も日本は特に多いのではなかろうか。
 なかには面倒くさいのか、はたまた無知な故か、すべての対象物をを一個二個の呼称で
すます人もいる。しかし数詞は日本語の繊細な表現の一部でもあるから疎かにはできない。
 また、縁(えにし)、雨宿り、小糠雨(こぬかあめ)、驟雨(しゅうう)、名残り雪(な
ごりゆき)、草いきれ、蝉時雨(せみしぐれ)、 野分(のわき)、逢引(あいびき)、あだ情
け、言い知れぬ、群青(ぐんじょう)、鈍色(にびいろ)、仕舞屋(しもたや)など、私が
美しいと思う日本語がたくさんある。そのなかでも「心もよう」が特に好きだ。
 フォークシンガーの井上陽水が1973年9月に作詞作曲した「心もよう」は音楽も詩も実
に秀逸だと思う。

   作詞/作曲 井上陽水

さみしさのつれづれに
手紙をしたためています あなたに
黒いインクが きれいでしょう
青いびんせんが 悲しいでしょう
あなたの笑い顔を
不思議なことに
今日は覚えていました
十九になった お祝いに
作った歌も忘れたのに
さみしさだけを 手紙につめて
ふるさとにすむ あなたに送る
あなたにとって 見飽きた文字が
季節の中で うもれてしまう アア

遠くで暮すことが
二人に良くないのはわかっていました
くもりガラスの 外は雨
私の気持ちは 書けません
さみしさだけを 手紙につめて
ふるさとにすむ あなたに送る
あなたにとって 見飽きた文字が
季節の中で うもれてしまう
あざやか色の 春はかげろう
まぶしい夏の 光は強く
秋風の後 雪が追いかけ
季節はめぐり あなたを変える アア……

 さて「心もよう」とは心のありよう、どのような心境であるのか、といったことを表す
言い回しで、さまざまな思いが混ざり合っている様子などを含んだ表現である。私のよう
にいつも「岐路」や「AとBの狭間」で迷ってきた者にとってその微妙な心の状態や変化
は、『ダロウェイ夫人』の〈意識の流れ〉に沿うような気がする。
 「心もよう」はまた、黄色をみれば幼い頃の小学校の前の畑でのスケッチを、草いきれ
という言葉に出会うと川遊びからの帰り道のけだるさを、流行歌(はやりうた)を聴けば
すなわち女性にあこがれた学生の頃の場末の飲み屋を思い出す。そのような色や音や文字
や生きている周りの舞台によって「心もよう」は変化するようである。
 今読んでいる『エゴ・トンネル』という本の中に、人間の脳に「ミラーニューロン」と
いうものがある。それは他の動物の行動を観察して、自分の行動と照らし合わせて、まる
で我がことのように感じるという神経細胞のことで、まるで「鏡」のように反応すること
から、その名前「ミラーニューロン」名付けられたという。あまり繁く安易に使われるの
がいやで私は滅多に書かないが、いわゆる「感情移入」のことである。
 他の人と同じような言葉や情景や感情に、私が共感するのも「ミラーニューロン」のせ
いに違いない。そんな人々もまた同じ私の仲間なんだろう。

 大日本除虫菊『虫コナーズ』の長澤まさみと高畑淳子との掛け合いのCMである空間虫
よけ剤を「ぶら下げないよりだいぶいい」とか「最後までぐぐぐと踏ん張る虫コナーズ」
などとその効き目を曖昧にするところがなかなかいい。だからいままで私が表題について
いろいろ書いたものが少々辻褄が合わない文のような気がするが、まあ「虫コナーズ」の
いかがわしさ、あやふやさに免じて今回の表題を私が好きな言葉である「心もよう」とし
た。

323

 

 投稿者:編集部  投稿日:2016年 5月10日(火)20時18分53秒
返信・引用
 
第46号 「静」
 2016/2

              


  静                                 風野 茜



 最近、私に最も添う言葉は「静」だ。
「おはよう」「おやすみなさい」「いただきます」「ごちそうさま」。
こういう何気ない言葉、毎日口にしていた時はたいして意識さえせずに使っていた言葉が身近から
消えてしまった。盛時には、五人の家族と一匹の犬がいた家、声と音で満たされていた家が、今は
静かだ。
 古い木造の家は声をたてるという。時に、二階や屋根裏で「ミシッ」とか「カタッ」という音が
する。今まで気がつかなかった。静かだから聞こえる、聞こえるからなお一層感じる静けさ。本当に
不思議な静けさだ。


★表紙絵について
 「斜光」という高校同窓誌に寄稿していたあの人はいったいどんな方なんだろう、どんな御夫妻なのだ
ろう、それが風野 茜氏の作品を読んだ後に湧き上がった私の反応でした。その氏の家を訪問する機会が
できたのです。閉じ籠もり病にかかっていたというのに、数年振りで身繕いをして外に出て電車に乗って
氏の家に出向きました。昨年秋のことです。
 先ず目に入ったのが玄関の下駄箱の上に乗っていた小さなカモのつがいの置物です。私が想像していた
風野 茜夫妻の印象そのまんま。家の中のそこここに夫妻の思い出の小さな置物がありました。
 ピアノの蓋の上に置いてあったのがこの絵です。お孫さんが描いたものです。家の中でこの置物を見つ
けて絵にしてくれたそうです。そうそう、このお孫さんの名前も覚えています。斜光作品の中に登場して
ました。この馬はスエーデンの伝統工芸で、木製の馬「Dalahäst(ダーラナ馬)」。北欧を訪れたとき購入したもののようです。
 「至る所に風野家族が生きている」、家の中にはそんな空気が流れていました。このダーラナ馬の絵は
私には象徴的なもののように思えます。斜光作品を読んで私なりに想像していた家族の風景、夫婦の風景
がそっくりそのまま体感できた訪問となりました。
 

 投稿者:編集部  投稿日:2016年 2月17日(水)08時27分43秒
返信・引用
       第45号業 「業」  2015/12

              



前書き テーマ[業]                              長岡 曉生


 前四十四号のテーマ[生命]の流れを引き継いで[業]を今回の四十五号のテーマと定めました。
それでは「業」とは何か。 どう読ませるのか。 何ゆえテーマ[生命]の流れを引き継いでいるのか。
について、テーマ提供者の考えを説明します。

 [生命]は、この宇宙が始まった時から、その誕生に適した星系の適した惑星において、長い時を掛け
て形成されてきており、その結果この地球上では現人類を頂点とする生物集団が出現しました。
地球上での[生命]の出現は、偶然それに適した自然界の条件が整ったから起きたわけですが、これには
長い時間が掛かりました。逆に言えば、その間の自然環境の変化は、ゆっくりとしたものでした。
 しかし、ひとたび一定の言語とこれによる知識を兼ね備えた現人類が出現した後の自然環境の変化は、
正に破壊的なものとなりつつあります。これは、地球上で言語と知識の力により大発展を遂げた現人類が
持つカルマンが、地球という星の将来を左右していると言うことです。

 というわけで、現人類が地球という星に影響を及ぼしているカルマンを、[業]という漢字に集約して、
考えて見ました。

 周知の通り、「業」には、複数の読み方が有り、それぞれが異なる意味を表しています。

 先ず、「業」の訓読みには[なり]・[なりはひ]と[わざ]が有ります。
・[なり]は、草木において自然に生長したり実が成る意味の[なる]の連用形の名詞化です。昔は田畑
からの収穫を[物成り]とも呼びました。この[なり]の派生語に、[なりはひ(生業)]が有ります。
・[なりはひ]は、自然の恵みの[なり]と植物の蔓や根が自然にのび広がる[這ふ]の連用形[はひ]
の合成語です。その本来の意味は、五穀・木の実などが自然の恵みで増えることですが、後に人が田畑を
耕作して収穫を得ること、またそのための人為的な業(わざ)を指すように成り、さらには、人の職業お
よび生計一般をも指すようになりました。
つまり、自然の恵みに人が工夫を加えて農作物の増産を図るようになったわけです。
・[わざ]は、この[なりはひ]のために、人が人為的に加える作業・行ないです。

 次に、「業」の音読みには[ぎょう]と[ごう]が有ります。
・[ぎょう]の意味を、白川静博士の字統によって探って見ましょう。
金文と篆文(てんぶん)では[業]字は上部にのこぎり場のようなギザギザ、下部に長い柄のある器の形
です。
後漢代の辞書、説文解字では[業]を鐘や鼓などの楽器を並べて掛ける大版(大きな板)としています。
漢初の類語辞典、爾雅(じが)では版築法で二枚の板(版)で挟んだ土を打ち固める為の柄のある板を[業]
としまた版築法によって城壁を築く工事を[業]としました。
後代に、全て事業のことを[業]というように成りました。
・[ごう]は、佛教のカルマンにあたる言葉で、宿業・業苦などの熟語としても使われます。
さらに人が作るカルマンの内、行動によるものを身業、発言によるものを口業(くごう)、心中の思いに
よるものを意業(いごう)、これらを纏めて三業と言います。この三業の大きさは、人の知識量とともに
増大しているのです。
つまりは、人類が作る三業が人類のアーラヤ識つまり集合的無意識を形成して行くのです。

 今回、なぜこんな面倒な言葉[業]をわざわざテーマに選んだのでしょうか。
それは、秘密です。 何てことは申しません。
今の説明通り、[業]には人が無意識にあるいは意識的に作る結果が、全て含まれているんです。
というわけで、どうか皆さん自身がお好きな題材を自由に選んで下さい。
(そうです。色々書いたわりには、制約が無いんです。)

 表紙絵は、金文と篆書と楷書による[業]字です。
[業]字の画数が十三であるのも、十三期生の作者としては、尽きぬ縁を感じます。
                                      越智十三こと 長岡曉生

266(244)

 

生命

 投稿者:編集部  投稿日:2015年 7月 3日(金)19時28分30秒
返信・引用 編集済
   第44号「生命」 2015/8

                    表紙絵
           マンデルブロー集合



前書き 「生命」                                           竹内 一郎



 我々の住んでいるこの地球には多くの生命が重層的に絡み合いながら生存している。その関係は
単純に競合あるいは共存とはいえず複雑にからんでいるようである。共存、競合などの言葉は、全
体的に見ようとする立場から言うと成り立つかもしれない見方であり、個別の種にとってはただひ
とえに生命の維持しかないのであると思う。
 さて生命とは何だろう。このきわめて単純な設問に対する簡単明瞭な答えはおそらく見出せない
のではないだろうか。これに対する答えは、我々人間中心からではあるが、宗教、自然科学、芸術
などの多岐にわたる分野がそれを追求しているようである。そのような膨大な範囲の分野について
小生のごとき浅才はとても及びもつかない。

 それらの追求の中で量子力学を確立した物理学者のシュレーディンガー博士による『生命とは何
か』という著作があり、ちょうど今これを読み始めたところである。うろ覚えであるがシュレーデ
ィンガー博士の生命観として「生物は負のエントロピーを食べている」という考えがあることを確
かめてみたくなったことがその根本動機である。
 良く知られているがエントロピーは常に増大している。生物とは、このエントロピー増大に抗し
自らマイナスのエントロピーを注入することにより、生命を維持することが可能である、とシュレ
ーディンガー博士は言っているのである。

 現在この負のエントロピーをネゲントロピーと言っている。今でこそこのような見方が当たり前
となっているが、これが一九四三年に示されたということで、彼は天才というしかない。
この『生命とは何か』は、それまでそれぞれ別の道を進んでいた生物科学を物理科学の目で俯瞰し
ており、今日の生物学の根本にあると思える。
 良く知られている二重螺旋構造の遺伝子による遺伝の仕組みが現在では徐々に明らかになってき
ており、生命とは何かという問いに対して少しずつ答えが出てきているようである。それでもなお
根本的なことは何も答えていないか、回答が無いようである。なぜ生命のような複雑な構造、組織
が成立したのか。どうも生命のもととなる有機物は巨大な恒星中で生成され、その後の超新星爆発
時に空間に撒き散らされたものらしい。その塵の一部により太陽系が形成され、その中の惑星の一
つである地球において(おそらく)偶然に生命が発生するのであるが、不明のことがまだ多々ある
ようである。
 自分もそうであるこの不思議な生命について、これから勝手に想像力を働かせて考えていきたい。

2015.7.3

194

 

ありがとう

 投稿者:編集部  投稿日:2015年 7月 3日(金)19時24分57秒
返信・引用
  第43号 「ありがとう」 2015/5

          




前書き 「ありがとう」                                      国木 光

 「有り難うございます」は感謝を表わす言葉ですが、大変美しい響きの言葉だと思いま
す。茶道に一期一会という言葉がありますが、それは生涯にただ一度まみえるお客様だか
ら、誠心誠意まごころ込めておもてなしをしましょうという心の姿勢を説いたものです。
「有り難きことを今頂きました」一期一会のこの心を響かせて、ありがとうと言ったなら、
その言葉の響きは、深いところから発せられているので、相手の心に深く浸透し、言った
人も言われた人も、共に心が和み癒されることでしょう。それゆえにとても美しい言葉だ
と想うのです。

 何に対しての感謝なのかとうことは、感謝する人の意識の視点が何処にあるかというこ
とにかかってきます。視点を物に置いているとしたら、自分の好みの物を頂けば嬉しいし、
そうでなかったら、「こんな物」とやや迷惑な気持が入ったおざなりな「ありがとう」に
なってしまうでしょう。
 また義理堅いというのはいいことですが、頂いた物を見ておそらく幾ら位と値踏みし、
だったらこの位の物をお返ししなければと心を煩わせることになります。そうすると、相
手の好意をありがたいと思うよりも負担と感じてしまうことになりましょう。
  それは好意をお金で換算していることになり、心の貧しさという事になりませんか。
たとえささやかな贈り物であったとしても、くださった方の愛念をありがたく頂き、感謝
の気持を込めてありがとうと心から喜んだら、相手に最大のお返しをしたことになるでし
ょう。感謝する人の意識の視点を物ではなく心に置いている人は、物を通してあるいは行
為を通して、相手との心の交流が生まれてくるでしょう。

2015.3.17

164 再

 

フロー体験

 投稿者:編集部  投稿日:2015年 2月18日(水)03時03分48秒
返信・引用
    42号「フロー体験」


        

フロー体験─生活から楽しみを引き出そう

 フロー体験とは、なんのことはない、皆さんよく知っている、「没頭する」「没入する」
「寝食を忘れる」あの体験のことだ。平凡のように思われるが、よく考えてみるとこれが
生活から楽しみを引き出す─退屈で不安な生活を楽しいものに変える大変な業物なのです。
M・チクセントミハイ著『フロー体験─喜びの現象学』が教えてくれた。
 没頭は、「心理的エネルギー(つまり注意)が、現実の目標に向けられている時や、能
力が挑戦目標と適合している時に生じる。一つの目標の追求は意識に秩序を与える。人は
当面する課題に注意を集中せねばならず、その間ほかのすべてを忘れるからである。挑戦
目標の達成に取り組んでいる時が、生活の中で最も楽しい時である」(八頁)。
 なぜ楽しいか。「楽しさは、個人が知覚した挑戦目標が自分の能力と釣り合っている部
分で生じている。テニスを例にとれば、もし二人の能力が釣り合っていなければ楽しくな
い」(六六頁)。
能力と挑戦目標の関係を敷衍すれば、例えば、錦織選手の活躍で自分もテニスを習いた
いと思うとしよう。まずラケット振りから始めるだろう。しばらくするとボールを当てる
のが面白くなり、ラケット振りを嫌がるようになる。さらに今度はボールが相手コートに
入るのが面白くなり、ボール当て練習が退屈になる。それが進めば、今度は試合がしたく
なり、練習だけでは満足できない、……
 皆さん、このように、少しずつ目標のレベルを上げて挑戦し、楽しさを伴った経験は無
数にあると思う。遠い昔の受験勉強に始まり、何かの習い事、読書、創作、研究、スポー
ツ……。

 筆者の場合を一つ挙げておこう。忘れもしない、今を去る六十余年(!)前のこと、ニ
キビ面の高校生の時のある日のことである。受験時代である。数学の問題を解いていたか
と思う。しばらくの没頭からふと我に返ると、「ここはどこだろう」。なんと見当識を失
っていた。ここは縁側だ。その突き当たりの壁に向かっている。辺りを見渡し確かめる始
末だった。「まるで虚空に浮いていたな」「時間はあっと言う間に過ぎたし、楽しかった」。
結局「没頭はいいものだ」と思い、この年になるまで忘れることはなかった。

 フロー経験には、8つの構成要素があるという。このうち1つでもあればいい(六二頁)。
①達成できる見通しのある課題と取り組んでいる時に生じる。
 筆者の上記事例も、「自分にも解けそうだ」という見通しがあった。
②自分のしていることに集中できていなければならない。
 縁側の突き当たりとはいえ、自分の勉強部屋である。家は他には母一人であったが、母
がここに顔を出すことはない。
③行われている作業に明瞭な目標があり、直接的なフィードバックがある。

 筆者の場合も、解き方が皆目分からないという相手ではなく、「解けそうだった」。
答えは備えてあり、正解だったかどうかすぐに分かる。
④意識から生活の気苦労や欲求不満を取り除く、深いけれど無理のない没入状態で行為し
ている。
 筆者の場合、母にまつわる嫌なことを忘れることができた。(もっと大きく、勉強自体
そういうわけで、好きになった経緯がある)。
⑤楽しい経験は自分の行為を統制しているという感覚を伴う。
(筆者の場合、これはあまり意識されなかった)。
⑥自己についての意識は消失するが、これに反してフロー体験の後では自己感覚はより強
く現れる。
 筆者の場合、先にも述べたように、我を忘れて時を過ごし、逆に、我に返った後は、そ
んな自分であったことを強く意識した。
⑦数時間は数分のうちに過ぎ、数分は数時間に伸びるように感じられることがある。
 筆者の場合、あっと言う間に過ぎたのだった。

 皆さんにご自分のフロー体験を語ってもらおう。あるいは、考察してもらおう。
皆さんの刺激になるように、最後に掲げておく。
 「インド出身の若い数学の天才、スリニヴァーサ・ラマニュジャンは、彼の心理的エネ
ルギーのほとんど全部を数理論に投じたので、貧困、疾病、苦痛、それに突然訪れた死も、
彼にとってやっかいなものではあったが、彼の心を計算から引き離すことはできなかった」
(二五四頁)。

2014.12.30 神野 佐嘉江
 

第41号「気」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年10月25日(土)18時34分19秒
返信・引用 編集済
  第41号「気」 2014/10



         


 それこそ何〔気〕なく選んだ言葉、でも関心がある事柄のどこか象徴的な言葉のような
〔気〕がした言葉なのです。いざ前書き書くにあたって調べてみると山ほどの意味があり
ました。読みもキ ギ ケ ゲ と使われ方によって異なってきます。
同じ気でも「き」と「け」では解説の量も中味も異なります。広辞苑から簡単に引用して
みます。

 き【気】
 ①天地間を満たすと考えられるもの。またその動き。
 ②生命の原動力となる勢い。
 ③心の動き・状態・働きを包括的に表す語。
 ④はっきりとは見えなくても、その場を包み、その場に漂うと感ぜられるもの。
 ⑤その物本来の性質を形作るような要素。
 け【気】
 1実態をとらえるのではなく、何かそれらしい感じをいう。
 2けはい。様子。
 3心もち。ここち。
 4気力。心身の力。
 5病気。
 6その味わい。匂いなどのあること。

「き」も「け」の漠然としているけれど、何となく共通したものがあります。
そこで文字から責めてみましあ。小学館漢和辞典からです。
 气の部
 【気】
 ①天地間の自然現象。
 ②息
 ③目に見えない力、いきおい。
 ④空気
 ⑤ガス
 ⑥気だて
 ⑦一年を二十四分した季刊
 ⑨におい。
 ⑩おもむき。ようす。
 ⑪根気。
 ⑫人気
結果、広辞苑の「け」と「き」の合併版です。こちらの方が簡潔です。

 以前は科学一辺倒だったのが、近頃では分からない世界、説明出来ない世界にも関心を
持ち始めています。とりわけ精神世界のことは脳科学をもってしても未知のことだらけで
す。そんなことは迷信だ、妄想だ、と思うのは科学的に説明できないだけのことで、やは
り科学崇拝に過ぎない、これもまた「妄想」なのではないか…。
 気はいろいろな意味がありますが、今回のテーマとしては漢和辞典にあった①天地間の
自然現象、②目に見えない力、いきおい をイメージしたようです。
夏休みのラジオ体操で「大きく息を吸って、吐いて」のかけ声、香港に住んでいた頃には
早朝フラットの前で数人が集まってゆっくりと手や足を動かしていました。太極拳です。
他にも気功療法といったものもあります。酸素を吸って血流を良くする、単にこれだけで
はない「わけの分からないもの」があるようです。

 宇宙の不思議、人間が生まれて生きていることの不思議、感情の動きの不思議、考える
ことの不思議、信じることの不思議、全部ひっくるめて「気」につつまれているように思
えます。巨大な不思議不思議に果敢に立ち向かい、ほんの僅かではあっても少しずつ科学
的に解き明かしていこうとするのも人間、不思議不思議をそっくりそのまま受け止めてそ
れぞれの「よく生きる」をそれなりに実践していくのも人間、両方あっての人間なのです。

2014.10.2 古賀由子

64

 

第40号「謎」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年10月18日(土)16時29分8秒
返信・引用
  第40号「謎」 2014/8
 創立10周年記念号


          

前書き 「謎」                      古賀 和彦

 昔読んだ本に「99・9%は仮説」/サブタイトルが「思いこみで判断しないための考
え方」/ 竹内薫 著/光文社新書があった。それによると、この世の現象の99・9%
は仮説であるという。
 またWikipediaで調べて見ると「仮説とは、真偽はともかくとして、何らかの現象や法
則性を説明するのに役立つ命題のことで、別の言い方をするならば、何らかの実際の現象
や規則性に出会ったものの、その現象や規則性が出現する仕組みや機序が知られていない
ような場合に、それを説明するために、人が考え出した筋道や推論の前提のことである」
とあった。
 鉄の箱であるあの重い飛行機が大空をなぜ飛ぶのか? 現代ではベルヌーイの定理など
で機体の浮力について説明してあるが、本当のところ納得するような充分な証明ではなく
未だに謎の部分を残しているという。
 実際、ニュートン力学は19世紀末までは揺るぎない存在であった。しかし相対性理論
の登場によってその位置づけは変化し、相対性理論の枠組みの中での特殊な場合のひとつ
となって納まっている。思いこみ、常識、前例、先入観、固定観念をもう一度疑ってみる
必要がある。 この世はまさしく「謎」に満ちていて、私の行く末もまた何の確信もない
「謎」だらけである。

 謎という言葉をじっと見つめると、言葉の迷いと読める。それはまさに私がいつも文章
を書くときに覚える逡巡を現しているようだ。美しいとか友情とか素晴らしいとか、そし
て安易に使われている慣用句や警句など、それだけで文章は恙なく作ることは簡単だが私
は同じことを言うにも少しでも違った言い方、自分の感性に基づいた言葉がないかと考え
続けるのである。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをお
もしろく」と井上ひさしは言っているが、一般の人が安易に納得して受け売りすることに
私は疑問を抱く。一見易しそうな表現にも彼しか書けない言葉を模索して苦しんでいる姿
を、私は思い浮かべるのである。また一方では学術的なもの哲学的なもののなかには難し
くしか表現できないものや、隠喩、暗喩という難解なものでしか表現出来な芸術もあるか
らだ。
 さて「謎」という文字の成り立ちや本来の意味とは何か、「字通」で紐解いてみると、

「酒席などで、酒令として当座の余興に行われた遊びの一種で、文字探しの類が多い。

酒を飲む順序を指名されると負ければ罰ゲームが与えられる。謎解きやサイコロを使って
遊ぶもの、くじ引き、じゃんけんに似た劃拳などがある」
と書いてある。これはまさしく私達が目指す創造/概念メタファー/オキシモーランの世界
なのだ。
 

第39号「加賀見(カガミ)」</

 投稿者:編集部  投稿日:2014年10月18日(土)16時13分57秒
返信・引用
  第39号「加賀見(カガミ)」 2014/5

          

 加賀見は、鑑・鏡とも記される。
白川静博士の字通によると鑑(keam)・鏡(kyang)は、光(kuang)の意味を持ち金属
の盤に張った水で反射した光を臨み見ることである。

つまり、加賀見の[加賀]は人や物から射してくる光、[見]はそれを見ること。
鑑は、水鏡で[加賀(光)]を見ること。
鏡は、のちに水鏡の発展形として[加賀(光)]を見るために匠が面を磨いて作った器と
なった。

 佛教では、華厳経の因陀羅微細境界門中に、帝釈天(インドラ)の宮殿に掛かった帝網
と呼ばれる網のことを説いている。
この帝網には無数の宝石がくくりつけられ、それぞれが相互にその姿を映し合う鏡になっ
ている。
 実は、これら宝石とは、自らの姿を現わすと同時に、互いの姿を映し見ている人の存在
を示している。鏡三枚だけの万華鏡でさえ、それぞれの鏡が映し出す像の変化によって無
限の像が生み出されるが帝網上の無数の宝石は、人が相互に映している姿を、そのまま無
限に映し合う宇宙の鏡となっている。

それ故に鎮めた心の光で照らし加賀見を見れば、そこに写った対象の深奥まで解る。
鑑よ、鏡、加賀見さん。
αの作品を照らし映して、作者の心の内までも、隠さず見せておくれ。
読者よ、あなた自身も輝く心で、これらの作品を照らし映して読んで下さい。
長岡 曉生


  表紙絵について
 どんなに美しい羽根をもつ孔雀でも自分の姿などには少しも関心がない。それでも夜そ
っと木に登り空の鏡を眺めている。夜空の鏡に己の姿を映そうとしているかのように留ま
っている。
 煌々と照る月は夜空に浮かぶ丸鏡、孔雀の目線の先にも丸鏡、鏡が沢山集まってキラキ
ラと孔雀を映し出す。この風景は空の鏡に映った孔雀の姿なのです。
万理 久利
 

第12号 「出会い」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月23日(月)16時48分32秒
返信・引用
                                      .
第12号「出会い」 2007/8




          


◎ 輪を広め 奨みて会合 年新た (今年年頭に詠んだ句)

 小生1983年(昭和58年)2月24日に最初の脳内出血を発症し、多くの人たちの
ご配慮により幸運にも命をとりとめました。 2年間の休職後復職、16年の間茨の道を
乗り切って来ましたが、1983年(平成1年)8月10日、2回目の脳内出血を起し、
左半身の麻庫が重く、「身体障害者2級」に認定されました。
 外出もままならぬ状況でしたが、小学校以来の同級生のF君が、マンションの手配から
愛車で景勝地へのドライブ等々、多忙にもかかわらずお世話下さいました。
更に“赤チョウチン”で飲み交わす「出会い」もまた最高に楽しいものです。
 皆様のご好意を戴いて、横浜で開催された佐高11期生の45周年記念同窓会にも参加
させていただきました。有難い事です。外出は苦痛も伴いますが、叱咤激励して、趣味の
俳句の吟行にも率先して出かけます。
そこにまた新たな「出会い」があり、感動は一入(ひとしお)です、

◎ 一輪草 一人暮らしの 一工夫

                                                        碇 民治
 

第38号「心情風景」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)17時07分23秒
返信・引用 編集済
  第38号「心情風景」  2014/3/1

          


 雨風の強い日を除きほぼ毎日、その日の気分にもよるが二~五時間くらい散歩する。
所沢に住んでいるが、この町は狭山丘陵の先端部に位置し、舌状に伸びた丘陵とその間の
谷部によって成り立っている。ほとんどは住宅地となっているが未だに丘陵部では森とし
て残っている所がある。そのいくつかは公園として保護されている。
 そんな場所を月に三~四回は歩く。森といってもいわゆる里山であり、原生林ではなく
人工林である。それらの森あるいは林は、近年地域の人との生活と無関係になっているの
でほとんど手が入れられることなく荒れつつあるが、公園として保護されている所はそれ
なりの手入れがなされているようである。保護地域は落葉樹が多く、歩いていると季節の
変化を実感する。最初はただそんなものかと記憶に止め、あの時はこうだったなどと記憶
をさかのぼっていたのであるが、どうもあやふやなところが出てくる。そこで正確に比較
してみようと思い写真を撮って比べてみることにした。

 比較の為まず定点を決めそこを撮っていくこととした。ところが定点と決めたところを
数週間後に訪れてみると、周りが変化していてよく分からなくることもしばしばである。
カメラはいわゆるディジカメである。一昔前のようにフイルムの残り枚数も気にすること
なく撮影できる。定点と思しき所、あるいはちょっと気がかりな場所など下手な鉄砲もそ
のうち当たる方式で撮っていった。散歩終了後パソコンにそれらの映像を収納するのであ
るが、なんとなく映像の色が記憶と違っている。これはよく考えると当たり前のことであ
るがなんとなく納得がいかない。
 もともと発光体でない限り、物には固有の色というものがない。その時の光の様子によ
って色は変化する。極端に言えば同一のものであっても、晴天の太陽光の当たる所と日陰
のある所とでは色は変わる。ところが普通そのような変化は気がつかない。もっともこれ
を写真に撮ってみると分かる場合もあるが。しかし写真を見てなんとなく違うという感覚
は、光に起因するの色の違いではないように思える。要するに自分が〔思っていた世界〕
と違うという感覚である。

 人はみな物の色について、思い込みといってもよい記憶を持っている。写真を見て違う
と思うのはこの記憶色との間で生じるようである。
物を見て人はそれを脳内のある場所に収納する。それを記憶として呼び戻すときは、その
人が持っていた色の履歴を参照し「こうであった」として呼び出しているようである。こ
れを〔心象空間〕とでも言っておこう。一方写真はカメラ自体の有する特性により記録さ
れており、あえて言えば〔カメラ空間〕とでもいえる。心象空間はカメラ空間と比べ慣性
が巨大であり、微妙な変化には追従しないようだ。しかしながらある特徴的なことに対し
ては過剰なくらい反応するようである。
 この心象空間と写真を近づけるために色々な実験を試みた。最近の写真編集ソフトを使
用すると相当なことができる。ひと昔前のプロの写真家と同じような処置ができるようで
ある。当時は撮影時のフイルター、あるいは現像時の処理など、手間をかけて仕上げたこ
とが現在ではパソコン上で目視しながら可能になる。ソフトにより色々あると思うが、ま
ず撮影時のカメラの設定を生にしておく。この生の画像をパソコンで開いて編集画面を見
ると、露出補正に始まり色温度変更など色んな項目が出てくる。これらを選んで、画像を
見ながら自分がそう思った画像に近づけるべく変更していく。これをやると相当なところ
まで心象空間に近づけることができる。

竹内 一郎郎
 

第36号 「古 典」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)16時54分53秒
返信・引用
  第36号 「古 典」 2013/11

          


古典への視座

 古典を見る自分の目は、先の東北大震災によって変わった。大震災からひと月ばかり経
った頃、《そういえば『方丈記』に地震の記述があった》と思い出し、かくて久しぶりの
何十年ぶりかでこの本をひもといた。

「又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。
山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり」という大地震の描写では、《文がいい》
とその把握に感心したりした。
「地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず」。なるほど。「家の内にをれば、忽ちにひ
しげなんとす。走り出づれば、地われさく」。なるほど、なるほど。

 他のタイプの天災の記述もあった。
「また養和のころとか、久しくなりて覚えず、二年があひだ、世の中飢渇して、あさま
しきこと侍りき。或は春、夏ひでり、或は秋、大風、洪水など、よからぬことどもうち続
きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り冬収
むるぞめきはなし」。 飢饉の記述である。
 民はどうしたかというと、「これによりて、国々の民、或は地を棄てて境を出で、或は
家を忘れて山に住む」。「念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとく
すれども、更に目見立つる人なし」。
 世では「さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるし
なし」。これが初年度だという。
 次の年も続く。「前の年、かくの如く辛うじて暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思
ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まささまにあとかたなし」。
ついに人々は「はてには、笠打ち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家
ごと乞ひ歩く」。この者達は「かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち
倒れ伏しぬ」。そうして「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知
らず」。世はどうしたかというと「取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界にみち満ち
て、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬
・車の行き交ふ道だになし」。
 こうした遺体を数えたお坊さんがいた。それによると、「四、五両月を数へたりければ、
京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる
頭、すべて四万二千三百余りなんありける」。夥しい数の遺体が放置されていたのだ。さ
らに、「いはむや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原・白河・西の京、もろもろの
辺地などを加へていはば、際限もあるべからず」。さらにさらに、「いかにいはんや、七
道諸国をや」。

 僕はいつの間にか、彼我の社会を比較する視点で文を追っていた。この飢饉、今の時代
だったらどうだろう。この度の大震災を念頭に置くと、もしいったん起これば、人々は直
ちに救援の手を伸べる。人々ばかりでなく、各自治体、村から町、市から県、国まで手を
差し伸べて、手厚いだろう。さらに国内ばかりでなく海外からもこれでもかこれでもかと
援助の手が伸びるだろう。
 『方丈記』の時代は、この手の援助が見られない。人々は被災しても放置されたままだ。
彼これを比べると、社会の「密度」が違うことが感じられる。社会は間違いなく「進化し
ている」のだ。予防措置が講じられることも考え合わせると尚更のことだ。人が社会を作
ったのも、相互扶助のためだと考えられるが、その実が得られたとの思いである。

 ここに至って自分の古典の読み方が今までと違っていることに気付いた。若い時からず
っとこの方古典は「お習い申し上げる」という態度で接していた。自分の人生を照らす展
望、役に立つ教訓などを得ようとしていたのだ。いま、自己観照してみると、『方丈記』
には、社会の彼我比較という姿勢で接しているではないか!

 『方丈記』の読書から二年ほど経ったこのほど、『更級日記』に目を通した時もそうだ。
やはり「お習い申し上げる」的態度ではなく、やはり彼我の比較という視点で読んでいた。
今回、「実存空間」が、その彼我の比較の視野に入っていた。
 『更級日記』は、著者である少女が今の千葉県から京都へ旅するところから始まる生涯
の日記であるが、その記述に「恐ろしい」「心細い」という内容が幾つもあった。
 「足柄山といふは、四五日かねて、おそろしげに暗がりわたれり」。
 「をさかなかりし時、あづまの國にゐて下りてだに、心地もいさゝかあしければ、これ
 をや、この國に見すてて、迷はむとすらむと思ふ。人の國の恐ろしきにつけても」
「母いみじかりし古代の人にて、初瀬には、あなおそろし、奈良坂にて人にとられなば
 いかゞせむ。
 石山、関山越えていとおそろし」
「冬になりて上るに、大津といふ浦に、舟に乗りたるに、その夜、風雨、岩も動くばか
 り降りふゞきて、雷さへなりてとゞろくに、浪のたちくるおとなひ、風のふきまどひた
 るさま、恐ろしげなること、命かぎりつと思ひまどはる」
などなど著者は様々の場面で「恐ろしさ」を感じている。かの頃の、実存空間は「恐ろし
かった」のだ。
 またそれは、「心細く」もあった。
 「片つかたはひろ山なる所の、すなごはるばると白きに、松原茂りて、月いみじうあか
 きに、風のおともいみじう心細し」
 「いとゞ人目も見えず、さびしく心細くうちながめつゝ」
「父はたゞ我をおとなにしすゑて、我は世にも出で交らはず、かげに隠れたらむやうにて
 ゐたるを見るも、頼もしげなく心細くおぼゆるに」
「おはする時こそ人めも見え、さぶらひなどもありけれ、この日ごろは人声もせず、前
 に人影も見えず、いと心細くわびしかりつる」
「又の日も、いみじく雪降り荒れて、宮にかたらひ聞こゆる人の具し給へると、物語し
 て心細さを慰む」
「人々はみなほかに住みあかれて、古里にひとり、いみじう心細く悲しくて、ながめあ
 かしわびて、久しうおとづれぬ人に」
 などなど「心細さ」の記述が散見される。

 かくて今と比べて、『更級日記』を読んで、《かの時代(およそ今から一千年前)、「恐
ろしくも心細い」実存空間だったのだな》と思った次第。


 僕の余生も残り少なくなったせいもあろうか、古典の読み方が「お習い申し上げる」か
ら変化していることを感じるのである。諸君におかれてはいかがだろう。

神野 佐嘉江
 

第36号「言葉(言魂)」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)16時37分14秒
返信・引用
  第36号「言葉(言魂)」  2013/8

          

前書き

 [言葉には不思議な力があります]
こんな文句から始まる本がありました。
続いてマザーテレサの言葉が書かれていました。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
  言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
  行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
  習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
  性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
言葉、行動、習慣、性格、運命と繋がって行きます。
言葉の、重さ、大切さが分かります。

 以前αの作品の中で引用した新約聖書 ヨハネによる福音書第一章第一節を思い出しま
した。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  はじめに言葉がありました。   in the beginning was the Word,
  言葉は神とともにありました。   and the Word was with God,
  言葉は神でありました。       and the Word was God
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 数年前、文芸同人に参加してから作品投稿を通じて、言葉への拘りが深まりました。前
のようにすらすら書けなくなりました。作品だけでなく、ちょっとした手紙、投稿、メー
ルですら考え込むようになりました。そして日常発するおしゃべり言葉にもとまどうこと
があります。
自分が意図するものとは異なった言葉が出てしまう、或いは聞き手、読み手に言葉が通
じない、そんな場面に出くわすことがあります。
 言葉は人類がつかみ取った素晴らしい宝物ですが、ちょっとした刃物、ときには凶器に
もなります。皆が共通の認識のもとで使っている言葉のはずなのですが、その言葉の意味
合いが少しずつ異なっているのではないか、自分はどこまでその言葉の意味を知っている
のか、使い方を知っているのかなどと立ち止まることが多くなりました。
 他者に対して言葉を使って自分をどのように間違いなく表現するか、誤解されないよう
表現するかということ以前に、言葉を使って思考する自分のその土台となる言葉ひとつひ
とつが、あやふやなものであってはならないとの思いが心に刺さるようになりました。感
覚、感性だけではない「考える」ときに使う言葉が淀んでいたら思考まで淀むような気が
しています。

 言葉は過去のたくさんの人々が紡いできたもの、その中にたくさんの魂が宿っている、
そして自分も今その言葉を使って自分の魂を紡いでいる…、そんな思いに行き着くのです。
生き続ける限り、最後まで言葉との格闘、遊びが続きそうです。

古賀 由子
 

第35号「迷宮(labyrinthラビリンス)」</

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)16時35分13秒
返信・引用
  第35号「迷宮(labyrinthラビリンス)」 2013/5

          

前書き 迷宮(labyrinthラビリンス)        古賀 和彦

 迷宮と言えばギリシャ神話の「アリアドネの迷宮」ミノス文明の「クノッソスの迷宮」
が頭に浮かぶ。「クノッソスの迷宮」は死者の世界だったという。しかしこの世にあるク
レタ島のなかにあるから、死者の世界とこの世を結ぶ建物、場所、空間なのだろう。だと
すれば古事記に出てくる底根国(そこつねのくに)、イザナギが妻に逢いたい気持ちを捨て
きれず、黄泉国(よみのくに)まで逢いに行くが、そこで決して覗いてはいけないというイ
ザナミとの約束を破って見てしまい、結局は死んだ妻を生き返らせることはできなかった
というこの話は、もう一つのギリシャ神話のなかのオルフェウスとあの世の妻エウリディ
ケとの物語と同じである。
 またゲド戦記にも若いゲドは死者の霊と共に「影」をも呼び出してしまう。その後ゲド
は石垣の向こう、暗黒の黄泉の国のなかで影と戦う物語がある。この暗い空間は生と死の
狭間にあり、人の意識や感覚の惑うまるで迷宮のようではないか。ゲドは襲いかかる影即
ち、猜疑心や虚栄心や嫉妬心などの邪悪な己の心と戦うという解釈もあるという。
 長い私の人生もまたこのような暗黒の迷宮のなかで一所懸命出口を探して彷徨い続けて
いるようなものだと思うこともないではない。
 

第34号「息吹」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)16時33分48秒
返信・引用 編集済
  第34号「息吹」 2013/2

          

☆α34号について
 同人誌αも号を重ねて34号に成った。34号と言えば佐賀人それも我が世代に取って
は旧長崎街道、中でも市内を東西に貫通し、ツ―ツラツ―で通れる貫通道路の番号だった。
 それでは、34という数とαとの間には、何らかの関係があるのだろうか。実は、大き
な関係がある。
 34は素数17の二倍だが、αの主宰者赤松さんの本名の姓の画数合計(天格)・名の
画数合計(地格)は、共に17画である。とうぜん姓・名の画数合計(総格)は34であ
る。
 それだけではない。素数17は、現在赤松さんと共にαの無限回廊シリ―ズを分担して
いる他の2名、長岡と万理さんの姓名要素である地格・人格にも含まれている。
というわけで、この34号の前書きは担当者の長岡が分担し、表紙絵は絵が上手な万里さ
んが分担して呉れることになった。

★新会員と今回のテ―マ
 ところでこのα34号は、国木光さんという新会員が加入された記念すべき冊子である。
つまりαにとっては、また一つ新風が吹き込む記念すべき号数となる。
この「新風」と、34数(すう)との関係が密接な赤松さんの以前の担当テ―マ「颯」の、
「風が吹く」「風の音」という意味に因んで、今回のテ―マを「息吹(いぶき)」とした。
そもそも、国木光さんの名前の「国+光」には「風」という意味があるのだ。
と言うのも、周易の第二十卦(か)風地観の第四爻(こう)には「国の光を見る。もって王に
賓たるによろし」と有る。この風地観という卦は地上を吹く風で有り、その第四爻(こう)
は主宰者に歓迎されると言う意味である。
 テ―マ決定のあとで気がついたことだが、国を本字の國に戻すと國木光さんの姓名要素
である動格にも素数17が含まれているのだ。
 風と言えば、男女の風神を祀る奈良県龍田大社の女神の名は国御柱命(くにのみはしら
のみこと)と言うが、日本では柱は木で出来ている。ここにも国と柱つまり国と木の組み
合わせ、国木光さんの姓が登場する。
 テ―マ「息吹」と風との詳しい関係は、作品中に語ることにして
万理さんに依頼した「息吹」の表紙絵は、やはり風の精の「シルフ」を題材にして戴こう。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
34号の表紙絵                        万理久利

 依頼者提供の丁寧な資料でなんとかイメ―ジを膨らませることができました。
浮かんだら速い。
 「Sylph(シルフ)」と「鳳凰(ほうおう)」、二つも描いてしまう勢いです。
東西対決の様相も帯びてきます。
結果表紙の画像は、ゆっくりと舞い上がる東の大関「鳳凰」となりました。
光の粒、光子をまき散らしながら何かが静かに始まる、創造、再生が始まるのでしょうか。
この鳳凰の姿自体が、生命を包み込む大いなる「やすらぎ」「息吹」そのものになればと
考えたのですが、なかなか思いどおりにはいきません。
光の衣装のつけ過ぎでちょっと重そうにも見えます。
光子には“質量”は無いらしので、どうか気になさらないよう。
期待に添えず申し訳ありませんでした。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
画像二枚のお礼                     今回のテ―マ担当者

いえいえ「Sylph(シルフ)」と「鳳凰(ほうおう)」の2枚とも依頼者の期待通りの出来映
えでした。

・「鳳凰(ほうおう)」
誕生したばかりの蒼い宇宙空間のなかを、光の中心を眺めながら、ゆったりと上昇して行
く鳳凰の姿は、新しい宇宙の中で、進化・発展していく全ての生物の無意識を象徴してい
るようで、無限回廊シリ―ズを含むαの表紙絵にピッタリでした。
なお、この表紙絵の題字の息吹の影文字とルビは、古賀和彦さんに付けていただきました。

・「Sylph(シルフ)」
シルフは、どこにでも飛んでいく風の精です。風はHOROSCOPE中では好奇心を表わし
ますが、万理さんの絵でも、その眼は対象をしっかり見つめている姿に描かれています。
その扮装はもちろんピエロの姿。
とうぜん、この絵も[肥と筑]中の息吹の話題の挿絵として拝借しました。 役得ですね。

長岡 曉生
 

第33号「無常」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)16時31分29秒
返信・引用
  第33号「無常」  2012/11/24

          


テーマ「無常」小生にはまだ無理なようです。執筆中いろいろなアイ ディアが沸いてき
ますがそれらをまとめる総合的知恵が不足しているようで、今回のもの、発酵の泡は出て
きたようですが途中でなくなり腐敗の方向に向かったようで、なんとなく腐敗臭が漂って
いるようです。これ以上ながくなるとほんとうに腐敗してしまいそうで、とりあえずごま
かした感じです。
表紙のグラフは小生のmathematicaで作成したものです。こちらのほうは自信がありま
すが。
今回勢いはよかったのですがなんともみじめな結果となりました。

竹内 一郎
 

第32号 「造次顚沛」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)16時13分13秒
返信・引用
  第32号 「造次顚沛」 2012/8

          

 「造次顚沛(ぞうじ・てんぱい)」は、『論語─里仁』「君子無二終レ之間違一レ仁、造
次必於レ是、顚沛必於レ是(君子はとっさの場合やつまずいて倒れる場合でも仁から離れ
ない)」に由来し、とっさの場合やつまずき倒れるとき。転じて僅かの時間のたとえ。つ
かのま。一瞬のことである。四字熟語素の「造次」も同じく、にわかの時、わずかの間。
「顚沛」は、つまずき倒れること。転じてとっさの場合、つかのま、と変わらない。造次
顚沛は、『曾我物語』(南北朝頃)で「ききつる法門のごとくさうしてんぱい、一心不乱
に念仏す」。また『東京新繁昌記』(1874)で「口に天祖大神(あまつみおやのおおかみ)
の四字を唱ふれば、千魔万災必ず禳除せん。造次も必ず祖神と唱へ、顚沛も必ず祖神と称し」
などと使われている。(以上『日本国語大辞典』に依る)
 「一瞬」でくくられた語の収まったわが詞嚢は、繙いてみると、案に相違して貧しく、
慌てた次第だ。造次顚沛の他には次に記すのみであった。「瞬一瞬」「機が瞬一瞬と迫っ
て来る」『東京年中行事』(1911)。「瞬息の間」「此頃あくたれた時のお勢の顔を憶ひ
出させ、瞬息の間に其快い夢を破って仕舞ふ」 『浮雲』(1887)。
「倏(しゆつ)忽(こつ)」「然はあれど倏忽にして滅するや、彼も此も迹の尋ぬべきなし」
『即興詩人』(1901)。

 「造次顚沛」の掲出、言い換えると「一瞬」の掲出は、時期尚早に失した。自分でまだ
十分に把握しきれていない、考究中にあるものを出してしまった。少し気取っていたので
ある。それでも、皆さんの考えるきっかけに、ということだから、皆さんにおかれては、
頤(おとがい)を解くことになると思われるが、以下になぜ「一瞬」が大事か綴ってみたい。

 「一瞬」は「生きる」に深くかかわっている。このことが、「生きる」を今「在る」か
ら見つめ直している作業中に浮かび上がってきた。迂遠ながら、当方が大いに inspire さ
れたハイデッガー=古東哲明流の存在論を紹介しよう。
 この存在論は、まず、「存在者」と「存在」を区別する。存在者とは「存在するもの」
のことで、人間を始め森羅万象が含まれる具体的なものを指す。「存在」とは、「在るこ
と」を言う。
 ①「存在者」から見れば「存在」は「存在者」ではない。だから「存在」は存在しない。
 ②「存在者」は存在という底があるが、その「存在」にはもう底がない。 (もしこの
  「存在」に存在というもう更なる底があれば、その存在にまたもう一つの底があるこ
  とになって、というふうにどこまで行ってもきりがない。だから存在に底があるとす
  るのは誤りとなる)。「存在」は無根拠である。
 ③以上より、「存在」は根拠(拠り所)を欠き、存在できない。「存在」は「無」であ
  る。

 「存在」と「無」は同じことの表と裏をなしている。炎(たとえばロウソクの)のたと
えを挙げよう。炎の中には燃え上がる動勢と使い尽され消え去る動勢がある。これらの動
静が一瞬のうちにからみあって燃え上がるという事態が起こっている。ここに「存在」と
「無」が表裏一体をなした。

 この存在論を時間論から見れば、存在=無というのは、直線時間でもなく円環時間でも
なく、垂直時間、「一瞬」というものに目をとめた時間論となる。ロウソクの炎には、一
瞬における生成、消滅がある。
 一瞬は一瞬ごとに始まりがあり終わりがある。始まりがあるのだからその一瞬において
天地が開闢する。人は一瞬ごとに森羅万象に立ち会っている。その生起と消滅とにである。

 この存在論をまた人生論から見れば、こうなる。
存在するものが、存在の根拠がなくて存在しているということは、考えてみると驚き以外
のなにものでもない。存在するものは、なくてあたりまえ、ないことが本来の姿、在るこ
とこそ異様だ、ということである。つまり存在するものが在るということは稀なことで、
神秘ですらある。「在る」こと、このことだけで人は幸せだ。
 私、あなた、そして、森羅万象が、一瞬ごとに出合っているということは、またもう一
つの驚きである。このお互いに稀なものどうしがたまたま巡り合っているということは、
またもう一つの神秘ではなかろうか。
 これらの神秘へ、直線時間で疲れた目をやろう。もう明日のことは思い煩わなくてよい。
昨日のことは忘れろ。あくせくするな。今・ここ、生命の息吹を生きよう。一瞬一瞬湧き
出てくる時間があることへ目をとめれば、人は存在神秘の歓喜に包まれるはずだ。生きて
いる! 生きている! 人はあまりにも目的から目的へ、用から用へまっしぐらに渡り歩
きすぎているのではないか?

 こうしてハイデッガー=古東流の存在論をここに受け売りしたが、当方、理解不足の生
兵法披露の謗りを免れ得まい。古東哲明氏の著書を挙げるので、皆さん自ら繙かれ、あた
られたい。
 『〈在る〉ことの不思議』(勁草書房)。これは本格的な理論書である。
 『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)。右の書に似ている。
 『瞬間を生きる哲学』(筑摩選書)。啓蒙書で易しく感情移入できる感がある。
 『他界からのまなざし─臨生の思想』(講談社選書メチエ)。今・ここを豊かにする生
  き方の実例。

 愚老は、学生の頃、「内からあふれ出てくるものを生命と名付け、その強さを力と称し、
外に対して通ることを自由と言う」、確かこんなふうに定式化して、それ以来その「生命」
「力」「自由」に則って生きてきたが、思うにこれは、ハイデッガー=古東流の「今・こ
こ」「生命の息吹」の「生きる」に重なる生を通してきたことになるのではないか。
明日はどんな楽しいことをしようと思いながら就寝の蒲団を敷いたものである。
 就職と言えば、文学部の学生にとっては当時一流の会社であった博報堂に内定したが、
卒業間近の三月になって先方へ出向いて内定を取り消した。わがままなものだ。向こうも
面食らったろう。大きな会社に入れば大きな責任を持たせられる。すると自分の性格とし
てそれを全うしようと全力を注ぐ。そのあまり、自分の心から望む好きなことはできない
であろうと思った。それが断った理由である。そうして小さな勤め先を選んだ。おかげで
長い間に倒産に次ぐ倒産で、生涯勤め先が変わったのは十指に余る。生涯貧乏である。思
うに我が人生は「働く」ではなく「遊ぶ」であった。
 古東哲明はまた、生の純粋形である、剥き出しの簡素な生命、生の息吹「ゾーエー」と
生の所有形である、社会的な生「ビオス」の両方で、人生を押さえる考えも紹介している。
これは古代ギリシャ以来のものだという。(『瞬間を生きる哲学』)
 我が三十の頃「人の像をした美しい青い地球」を着想した。地球のエネルギーをもらっ
て生きたいという思いから、人と地球を合体させた。
 初めて見た地球の天体写真がとてつもなく美しかった。しかし漆黒の宇宙に青い地球が
浮かんでいるが、見ているうちになぜか羊が一匹跳ねた。青い地球のことをなぜ美しく感
じられたのか長い間分からなかったが、この羊が跳ねたのがなぜなのかも長い間分からな
かった。青い地球の美しさは、死を意味する暗黒の宇宙に対して生命に満ちた青い地球と
いう、この死と生のコントラストに感銘したと分かった。羊についてはやっと当節になっ
て一つの解が生まれたが、思うにこの羊は、生の純粋形「ゾーエー」のシンボルではなか
ったか。
 愚老はこのところ己が生涯をたどる作業にいそしみ、恥を含むエポックメイキングな事
件を拾ってきたが、「人生は社会化」との認識が固まりつつあった。子供の天真爛漫が社
会の壁にぶちあたり、子供は次第に社会化して大人になるが、これは生涯続く。これこれ
人生の一つの押さえが可能だ! などと自分の中では発見であった。古東流に引き直すと
この押さえは「ゾーエー」と「ビオス」にあたり、愚老の生は「ゾーエー」マインドの生
だったのではないか。

 皆さん、皆さんの場合は、どうであろうか。この拙稿が、皆さんそれぞれの生を考える
一つのきっかけになれば幸いである。愚老の「生きる」を、六十歳近くになってまとめた
ものがあるので、以下恥を忍んでこれを掲げ、これまた皆さんの参考に供しよう。(なお
この「生きる」はいま「在る」の知見が加わり、組み立て直しが将来あるかもしれない。)


こうしてこの生を生きた

 1.(肉体面)=(生物としての)生命を保つ。
    ・バランスよく食べる。
    ・危ない所には近寄らない。
    ・ちりも積もれば山となる。
 2.(精神面)
          ………原理的には………
    ・よりよく生きること。
    ・充実して生きること。
    前提=生にはしたい事がある。
     「生命」とはしたい事が心に溢れること。(=好きな事)
     「力」とは、したい事へ向かって駆動させる力のこと。
     「自由」とはしたい事ができること。(天真爛漫、自然児)
     「生命」「力」「自由」が十全に働く事を「充実して生きる」という。
   とりもなおさず、いきいき生きること。
   自由であるために、
     憂い・悩み・心配・煩いごとなどを持たぬこと。
     人に束縛されないこと。
   ・(心の状態)快適であること。
         ………具体的には………、
   ・したいことをする(原則)。
   ・好きなことをする(志)。
     創る。
     文学する。
     生を知る、探る、味わう。
     本を読む。
     快楽を味わう。
     五感で味わう。
     なにをする。
      ものを全ていただく。
     生を味わう。
     五感をフルに活用する。
   ・人に束縛されない。
 4.(時間) 長寿を図る。
 5.(範囲) 生命を宇宙の中でとらえる。

神野 佐嘉江
 

第31号「遊び」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)16時03分54秒
返信・引用
  第31号「遊び」  2012/5

          

我(われ)ホモ・ルーデンス

 父のコクヨの大学ノートに
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこ
そ動がるれ」
と鉛筆で書かれていたのを思い出します。
 当時、父はほとんど布団の中で、同居の孫たちの声を聞いていました。孫たちが階段を
どたどたとものすごいスピードで降りるのにも、大きな声で話し、笑い、ふざけ会うのに
も、私はイライラしたものでしたが、父にとっては未来に繫がる息吹だと感じていたのか
と、後になって感じ入ったものでした。
 その父も遊び人だったと思います。賭け事も女遊びも縁遠く、そんな時間があったら家
の修理の挑戦、友を尋ねて、歴史を訪ねて、見も知らぬ人を訪ねての旅行、おんぼろ軽四
輪に様々な細工をし走行しやすくする工夫、孫を連れ出して近隣ドライブ、次々と生き生
きとやっていました。趣味というよりも一種の「遊び」だったのかと思います。
 「遊び」についてはこれまで漠然と、現実離れの世界で自由に魂を羽ばたかせる、その
程度の認識で来ました。子供はもちろん大人も遊んでいる。遊びとはなんだろう。

 「遊び」の定義は幅広いようです。
【広辞苑】
1.あそぶこと。なぐさみ。
2.遊技。
3.遊興。特に、酒色や賭博をいう。
4.あそびめ。うかれめ。遊女。
5.仕事がないこと。
6.しまりがないこと。
7.(文学・芸術の理念として)人生から遊離美の世界を求めること。
8.機械の部分と部分か密着せず、その間に或る程度動きうる余裕のあること。

【ホイジンガ(ハイツィンハ)】『ホモ・ルーデンス』著者
1.自由な活動
2.隔離された活動
3.未確定の活動
4.非生産的活動
5.規則のある活動

 広辞苑は、さすが、日本語を守ろうとする意地と使命を感じさせます。「遊び」という
単語をひいたのは初めてで、こんな意味もあったのかと自分の認識の薄さにげっそりする。
ホイさんの定義は広辞苑の区分けとは違う視点から迫ったものだと思いますが十分重なる
部分があります。
 安易に「遊び」について語ることはできませんが、子供にとっては未来に向けて、大人
になるための学習の場所として、そして成人にとっては主に心の均衡を保つ、魂が自由に
羽ばたく場所として在るのではないのかと考えます。

 父の最後の鉛筆書きは力なく揺れたものでした。もう遊ぶ力は無かったのかもしれませ
ん。それを孫に托したのか、若い命が羨ましくかつ無念さで一杯だったのか、それとも最
後の最後まで、こんな走り書きを残すことで遊んでいたのか、未だに判りません。
 その娘も遊びが好きです。仕事も一種遊びに変え楽しむ工夫をしていました。日常でも
ちょっとした遊びで心の均衡を保っているような気がします。もちろん親と同じく男遊び、
賭け遊び、ゲームは苦手です。創造・想像の世界で時間の初めと終わりを決めて行ってい
ます。これは機械の「遊び」部分と同じようなものかもしれません。

2012.03.17 古賀 由子
 

第30号「沈黙」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)16時02分5秒
返信・引用
  第30号「沈黙」 2012/2

          


「沈黙」前書き   饒舌と緘黙の狭間で           古賀和彦

 「沈黙」と書いてみるとすぐ思い浮かぶのが、遠藤周作の「沈黙」と埴谷雄高の「死霊」
を思い出す。この二文字を思いついたのは、あまりにも推敲されない文字の氾濫に辟易し
たからだ。事象について断定的であったり、まったく普遍性のない言葉での個人的体験談
や日常茶飯の些事が、生理的要求でもあるように放埒に垂れ流されている現状は憂うべき
現象に思えるのである。この生活空間に流されているTVや雑誌やニュースや評論などの
膨大な量の情報が、はたして人に幸せをもたらすと信じていいのだろうか。 人間の基本
的な生命維持に必要な情報はそんなに人を溺れさせるほど多くはないはず。その他のほと
んどは報道の繰り返しや、病気や生命等の危うさを強調する脅迫宣伝や、パチンコや競馬
競艇、宝くじなどの射幸心をくすぐるものや、空白の時間を埋めるためだけのくだらない
お笑い番組ではないか。そして自分に都合のよい情報だけを加工して評論し、それが怪し
くなると挙げ句の果ては自己弁護を繰り返す似非文化人や、空白な時間への恐怖で語り続
けることを止めない人や、まったく物事を深く考えることをしない人などが多くて、軽薄
な己の姿を世間に晒していることさえ考えがおよばないようである。

 私は語りは現実の世界、沈黙は想念の世界と思っている。
書いたり語っているときは現実の世界で活動している。
物事の本質を見極めようとするとき想念の世界に入り込む。すなわちそれは沈黙の世界で
ある。
これは同人αの第2号で書いた有限と無限の私個人の理解の仕方と同じである。有限は現
実の世界、無限は想念の世界。この二つはまったく交わることがないようだが、そうでは
ない。マルクス・エンゲルスが唱えた学説が現実にロシアやその他の社会主義国家を作っ
たように、単なる想念の産物である思想が現実の人の生活に影響を及ぼして来た。その逆
もまたあり得る。現実の世界から得た経験や事実が想念の世界の思想を導くこともあり、
お互いに密に影響しあっているのである。
 また私たち人間は「より正しい答え」を導くために「より正しい考え方」を模索してき
た。その思考法として演繹法と帰納法というものがある。
演繹法は一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法。
帰納法は個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一
般的原理を導く方法である。
帰納法は現実のなかから本質を抽出し、演繹法は想念のなかで想定した結論を推論したも
のだといえる。これはまさに現実の世界と想念の世界の代物ではないか。

 遠藤周作の小説は、迷う信者に対して神は救いの手をさしのべなかった、なにも示唆し
なかった。 ただ静かに寄り添っていただけだという。 「弱者の神」「同伴者イエス」と
して黙して語らなかったというような内容だったと記憶している。
また埴谷雄高の「死霊」に出てくる、主人公三輪與志の異母兄弟で、精神病院にいれられ
た黙狂の矢場徹吾は、「無限大」、「存在」、「宇宙」、「虚體」、「自同律の不快」な
どの謎に立ち向かっているのであろうか。黙狂が失語症の故なのかそれとも吃音に悩まさ
れた故なのか判らない。 この喧噪の世の中、吃音に悩まされたことがある私は、そんな
沈黙の世界に魅せられるのである。


 

第29号「兆」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)15時59分47秒
返信・引用
  第29号「兆」 2011/11

          

29号の題名は「兆(きざし)」、これに副題[無意識と意識の狭間で]を付けることにした。

この頃、つくづく思うことが有る。
身の回りに起こる大事な事は、気をつけていると必ず何らかの前兆がある。
その前兆は無意識が表面意識の世界へ変化・顕在化するのに先立って起こってくる。
例えば、昔から夢を正夢と言い、噂をすれば影がさすと言い、辻で聞いた噂話でこれから
を占えると言い童歌で社会の将来のことが解るという。
それらの前兆は、物事が現実化する前に、眼に見える色・形、耳に聞こえる音、文字にな
った言葉という象徴として現われる。


それは、何故か。
と言う仕組は、今回書く羽目になった二つの作品中で詳しく語ることにして、
ここでは一つだけ。

それは、他でもない。29号の題名と副題の決定である。
無意識と意識の関係については、α入会前からの関心事であり、αに入会後は、機会ある
毎に触れることが多かったが、いまだ纏めて書くまでには至らなかった。
今回、私に29号の題名「兆」と副題[無意識と意識の狭間で]を選ばせたのは号数が29と
言う素数であり、かつこれが私の姓名の総画に等しいこと29号の無限回廊の担当が私の
順番になっていたことである。
となれば、素数の重要性に初めて触れ、また無限回廊シリーズの提唱者である赤松さんの
「狭間」世界に私が引きずりこまれる「兆」であるのは自明であろう。
恐るべし、グレイホール。

もちろん、これは担当者に訪れた兆にすぎません。
皆さんは、題名「兆」に捕らわれず自由に書いて下さい。
でもきっと、それぞれの作品が、各人に次に訪れる何かを告げることになるんだろうなあ。

表紙絵について
今回の題名「兆(きざし)」に因んで、万理久利さんが殷代の甲骨占に用いられた亀甲の図
を描いて呉れました。
図では、活きた亀の全体図を上下から描いた形になっていますが、実際に用いられたのは
腹側の変色した矩形部分です。回りから差し込まれた数本の焼け火箸も、数回の占断分を
一度に描いたものです。

長岡 曉生
 

第28号 「震災列島」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)15時40分9秒
返信・引用 編集済
  第28号 「震災列島」 2011/8

          


▼東日本大地震に思うこと
①若い時から僕は生きることを祝ってきた。「明日どんな楽しいことをしよう」そう思い
ながら寝に就いたものだ。いわば全生涯「遊ん」できた。そんな生がどうも「生きる」の
全てではない気がしたが答えが見えず、この十余年悩みといえば悩みであった。今回の大
地震はこんな自分のターニング・ポイントとなった。今回の震災は、「身を守る」こと、
「食べる」ことの大切さを僕に思い知らせた。それはある茫然自失した態の若い女性の映
像を見た時のことだった。彼女は何もかも、家や財産そして家族をなくしていた。「この
人はこれからどうやって生きていくのだろう」。自然の災害から身を守ることを常に心が
けるだろう。また命を繋ぐために食べていかなくてはと強く意識するだろう。良い行いを
するというよりも、遊ぶというよりも、「生き物としてのこの身を」やしなっていかなく
てはならないと強く思うだろう。僕に人間の生物的側面が生には大切だと思い知らせた映
像だった。

②僕は福島原発が恐ろしかった。爆発したら何十万人もの人々がその被害に苦しむ。事態
は悪化の一途をたどっていた。この時期僕は自分が「心弱く」なっていることを知った。
誰かの側に寄り添いたい。誰か側にいて欲しい。ぎゅっと引き寄せたい。そして談笑して
過ごしたい。こんな経験はこれまであったかなかったのか。また、被災者の中には地震、
津波が恐ろしくて、思い出しては震え泣きわめく人も出てくるという。この時人間は「心」
であるように見える。当方は、心に領されている人間というものを今回初めて思い描いた。

③当方長らく「人嫌い」であったが、「人好き」に船出したようなこの頃だ。食事をしな
がらテレビを見る。震災下の人々の営みは、多彩でドラマチックだ。地震津波が恐ろしい。
家屋敷、家財道具、そして身内全てを失った人。人のために地震に、津波に、放射能に散
った人は雄々しい。尋ね人の再開の喜び。乏しい物の譲り合い。援助に来てくれた人への
ねぎらい。自分よりも先にあの人を助けて。……当方いつの間にかテレビの「ヒューマン
ドキュメンタリー」を好んで見ていた。新聞は地震発生からあらかた捨てずにとってある。
原発が一息つきそうではあるし、仕事も一段落したので、恐る恐る新聞を広げ、人々の声
や姿を読み始めた。涙、涙、涙… タオルを側に置きながら。 「無限」「無」の世界ある
ことを教えられたのが十五六年前のことだ。それ以来の僕にとってはまさに激震だ。

④人の助け合いも素晴らしい。人を助けようとしてどんどん善意が集まる。外国の人も盛
んに応援してくれる。日本と見知らぬ世界の人との絆がとてつもなく太いのを目の当たり
にしている。「人の群れ」というのが視野に入った。「愛」ということさえ。

⑤それやこれやで「人間家業もいいものだ」と、この歳になって初めて思っている今日こ
の頃だ。いやいや、してみると、十五六年ぶりの激震どころか、若い頃より五十年、六十
年ぶりの激震と言えるかもしれない。

⑥『方丈記』をひもといた。大地震の記述を求めてであったが、「海はかたぶき、陸をひ
たし」など好ましい国語表記に触れて良い経験になった。彼我の社会の厚みに違いがある
ことは新鮮な発見であった。『方丈記』には大地震にあって、人が人を助けたという記述
はほとんどない。京に屍累々と万を数えるが放っておかれる。人々はとまどうばかりだ。
これに対して今回の震災にあっては、人が人を助け、人が人に譲り、村落共同体はまとま
って助け合い、自治体は村から町から市から県、国までこぞって行動を起こして助けよう
とし、企業も大小にかかわらず人助けに参加した。そうして『方丈記』の時代にはなかっ
た国際社会まで救援に乗り出した。彼我を見るとこちらは断然社会の厚みが増しているの
だ。そこに人間・人類の進歩が見られると思った。

⑦「震災文学」というのが日本で成立していい。ドストエフスキーは、死刑台に立って「止
めい」の一声で死を免れるという滅多にない恐ろしい経験をした。この体験が彼の文学の
原点になっていると思われる。今回の震災でこの経験を共有する人は日本にはごまんと生
まれたことだろう。ドストエフスキーは人が人を殺して神が関わる世界を描いたが、震災
の体験は人の世というよりも、自然が人間を殺す世界が人の生の根幹であることを教えた。
ドストエフスキーよりも深い世界観・人間観を持った文学が生まれるだろう。また、今回
あれだけ人間くさい多様なドラマが繰り広げられたのだもの。シェークスピアよりも広い
人間世界の物語が展開されることも期待される。「震災文学」は固有の日本文学となり、
世界でも輝き続けるだろう。日本は「震災列島」だから。

神野 佐嘉江
 

第27号「こんとん」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)15時33分42秒
返信・引用
  第27号「こんとん」  2011/5/28

          


「こんとん」随想

南海之帝為儵    南海の帝を儵(しゆく)と為し、
北海之帝為忽    北海の帝を忽(こつ)と為し、
中央之帝為渾沌   中央の帝を渾沌と為す。
儵與忽       儵と忽と、
時相興遇於渾沌地  時に相い与に混沌の地に遭う。
渾沌待之甚善    渾沌これを待つこと甚だ善し。
儵與忽       儵と忽と、
謀報渾沌徳、曰   渾沌の徳に報いんことを謀りて曰く、
人皆有七竅      人みな七竅(きよう)ありて、
以視聴食息     以って視聴食息す。
此獨无有      此れ独あることなし。
嘗試穿之       嘗試(こころみ)にこれを穿たんと。
日穿一竅、七日而  日に一穿を穿てるに、 七日にして
渾沌死       渾沌死せり。

 以上荘子「内篇」応帝王篇 第七にある寓話である。「儵」「忽」「渾沌」という名前に
は寓意がある。「儵」と「忽」はいずれも「迅速」の意味ですばやく機敏なことから人間
的有為にたとえ「渾沌」は未分化の総合態で自然にたとえている。
(岩波文庫 金谷 治訳注による。)このほか中国では神話として「混沌」があるとの
ことこれは四凶のひとつである。これについては詳しいことがわからないので言及しよう
がない。一方混沌という言葉もある。これはいわゆる「カオス」である。こちらの方はギ
リシャ神話に発している。それは世界の始まりに存在した神である。事物が存在する場所
としてすなわちなにかを入れる空間として最初に存在した原始神である。荘子あるいはギ
リシャ神話における渾沌あるいはカオスはいずれも何か原初の状態を表しているようであ
るがギリシャの考え方は、論理の最初の土台としての存在であり、荘子のそれは人間の知
恵を超えたところにある自然状態であるようである。
 今日現代数学はカオスを混沌の中から再発見しすくいあげた。従来決定論として扱われ
ていた現象もその中にある非線形の効果によりほんのわずかな初期条件が違うことにより
結果とてつもない違いあるいは予測不可となることがわかった。これはものの見方にたい
する新たなパラダイムを開いたものである。いわゆる「ラプラスの悪魔」の世界観の終焉
である。もっとも「ラプラスの悪魔」に対しては量子力学ですでに否定されていたのであ
るがいわゆる古典物理の世界においても終焉を迎えたのである。実際に起こる事象ほとん
ど非線形のである。いままでこれらほとんど線形近似にておおよそのものはそれで事足り
た。ところがそれですまないものがあることがわかってきた。これが新しいものの見方の
地平を開いたパラダイムである。
 添付している図はローレンツのアトラクターといわれているもの。これは地球の大気の
動きをある条件の下にモデル化したもの。
こんなことを書いているうちに東北関東大地震が発生。そのエネルギーはマグニチュード
9というとてつも無い大きさ。これは阪神淡路大地震のやく三百五十倍以上のエネルギー
である。その津波を伴う破壊力の巨大さ、その前に砕け散る人の営みの矮小さ、悔しいけ
れどどうしようもないスケールの違いというものを感じる。地球活動にとって今回のよう
な地震、なにも特別な出来事ではない。起こるべくして起こったこと、プレートの衝突に
よりそれらの境界に歪がたまりその弾性限界になると瞬時に歪を戻す動きが地震、あるい
はそれに伴う津波である。人はまだ地殻の正確な性情を捉え切れていない。又現状を正確
に測定できないでいる。対極的に見るならこのような現象カオス的なものであろう。
 人はいろいろ技を尽くし渾沌に七覈を穿たんと試みるも、渾沌はなかなかその正体を現
すことなく逃れているようでる。カオスを基台とした論理で渾沌を殺すことなく七覈を穿
つことが出来るのか。人は永遠の見果てぬ夢を追って生きていく。
このたびの震災で被災されたかたが一日も早くもとの生活に戻られるようねがうととも
に、この未曾有の災害から日本が全力を挙げて復活するよう頑張りましょう。

竹内 一郎
 

第26号「仮面」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)15時25分42秒
返信・引用 編集済
  第26号「仮面」  2011/2

          

 「仮面」 少しネタあかし

● ピエロが好きだ。厚化粧して仮面をかぶる。悲しみや、厭味や悪戯を思いっきりはた
らける。
相手か ら攻撃されないようにかぶる。自分の邪心を見せないようにかぶる。あるときは
自分を攻撃するもう一 人の自分から逃げるためかぶる。衣装と化粧を何度も変えている
うちに自分の本当の姿がわからなくな る。だが、ピエロの涙は本物の涙。魂の奥から湧
き出る自分の涙。

● 仮面舞踏会が好きだ。仮面をかぶり自分の本性を自由奔放に出すことができるからだ。
仮面をかぶっても声は変えられないから知人には誤魔化しがきかない。だがこの舞踏会は
仮面をかぶり別人として振る舞うルールと心的効果がある。 顔が醜いからかぶるのでは
ない。気分を一変する ための仮面、飛ぶための仮面、小道具だ。

● 仮面選びが好きだ。自分のある一部の真実を抽出した顔を選び振る舞うためだ。たく
さんの仮面の中か ら選び出す、心躍る作業だ。

● 厚い仮面をはずせなくなった人間も大勢いる。本体に仮面が根付き、増殖し、のっぴ
きならない状態だ。 そのような人は仮面に乗っ取られた人間と言える。 内側から自分
の声が聞こえるが仮面がしゃべらせ ない。自分を仮面に売ったのだ。 そんな乗っ取ら
れ人間が結構世にはびこっている。

● 薄い仮面は意味深だ。見えそうで見えない、審美的、魔性的な力を時として発揮する。
男女の関係では 綱引きの修羅場をもたらす、困りものの小道具となる。

● ピエロが好きだ。職業として昇華し、自分も昇華し、そしてそっと涙を流す。職業だ
から仮面の付け替 え具合も知っている。決して乗っ取られることはない。でも付け替え
作業でだいぶ疲れるのだ。 自分 は必ずいつもここにいて、それでも仮面をつけ変えて、
しかも「自分を出す」のだ。重労働だ。それで も私はピエロになりたい。

○ 上記のような調子を今回の作品に載せてみました。

○ ハチャトリアン作曲 仮面舞踏会より「ワルツ」(Masquerade)
  http://www.youtube.com/watch?v=SHr7BjgjMJY
この画像と音楽を覧ながら、聴きながらの作業でした。どのような影響を作品に与えたか
はわかりませ ん。単なる雰囲気作りに過ぎなかったわけですから。

○ こんな展開も想像してみました。仮面と聞いたら・・・
祝 十郎(いわい じゅうろう)/ 正義の味方月光仮面!!
悪人によって危機に陥った人々の前に颯爽と現れる正義の味方。 衣装は白のターバンと
覆面その上 から黒いサングラス。悪事の現場への移動はオートバイ。

私立探偵 祝 十郎は明晰な頭脳と高い運動能力を持ち、依頼を受けて様々な事件を追う。
彼が消えた途 端に月光仮面が現れ、月光仮面が消えた途端に彼が現れることが多かった。
ここまできて新聞記者ケントを思い出しました。そうですスーパーマンです。
  「空を見ろ!」「鳥だ!」「飛行機だ!」「いや、スーパーマンだ!」
  この有名なキャッチフレーズの最後に
  「いや、俺はケントだ!!」の叫びを入れたくなりました。
  想像の世界はどこまでも広がります。

○ 月光仮面の画像と音楽を流していたら、違った作品になっていたかもしれません。

古賀 由子
 

第25号「颯」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)15時22分42秒
返信・引用
  第25号「颯」 2010/11

          

  「颯」―表題によせて                     古賀 和彦

まず始めに表紙のデザインに用いた「颯颯」という文字は、山鬼:楚辞・九歌にあるもの
を借りた。
雷填填兮雨冥冥   雷填填として雨冥冥たり
猿啾啾兮又夜鳴   猿啾啾として又夜鳴く
風颯颯兮木蕭蕭   風颯颯として木蕭蕭たり
思公子兮徒離憂   公子を思へば徒らに憂ひに離(かか)るのみ

雷が鳴り響き雨が暗く、サルは悲しげに夜も泣いています。風は颯颯と吹き渡り、木は蕭
蕭たる音を立てています、あなたを思うと私の心はいらずらに憂いに沈むのです

颯の文字の姿を眺めていると堀辰雄の「風立ちぬ」を思い出す。信州のサナトリウムの周
りの自然のなかで白い野バラの間を微かに吹き抜ける風ノイメージが湧いてくる。颯爽と
したという漢字がこの「颯」である。

大富豪で泥棒を趣味とするスティーブ・マックイーンと保険調査員のフェイ・ダナウエイ
の二人が、全く違う立場で丁々発止とやり合う「華麗なる賭け」という映画があった。悪
と正義のせめぎ合いなかで何とも言えない二人のもどかしい関係を表現したミシェル・ル
グランの「風のささやき」という名曲がある。
http://www.youtube.com/watch?v=Wl8fKAYQuPk&feature=fvsr
またマンディー・バーネットの ウィスパーリング風という歌もある。
http://www.youtube.com/watch?v=FcfPumlZFiY


  風のささやき

風は独り窓辺に佇む私の心に
微かなささやきを残して走り去り
彼の姿を見せることはしない

仮眠の五感をそっと刺激して
覚醒しようとする私をからかうように
過去の思い出のなかに漂わせ
仮の夢に想いをふくらまさせ
荷担した報いとして孤独な憂をあたえる ニューロンの揺らぎ

あるときは花の香りを運んで
あるときは竹林をさざ波のように
あるときは松林をゴーゴーとふるわせ
あるときは首筋に冷たい空気を置いて行く
あるときは私にはな歌を唱わせる

風は私の想念への誘い
風は私の心へのささやき
風は私への宇宙の啓示
 

第24号「夢碍无」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)15時18分37秒
返信・引用
  第24号「夢碍无」 2010/8

          

 むげんとは、夢幻か、無限か、無間か、はたまた無元なのか。投稿する同人は、いずれ
をも選べるけれど先ずは、「夢幻の如くなり」で良く知られた幸若舞の演目「敦盛」の
「夢幻の如くなり」をみて見よう。幸若舞は、源義家の十代の子孫桃井播磨守直常の更に
孫の桃井直詮、幼名幸若が始め室町時代に流行した語りを伴う曲舞(くせまい)の一種で
武士階級に特に好まれたという。

「敦盛」は、平家物語中、一ノ谷で平家の公達敦盛を討った源氏の武将、実は血筋とし
ては平家に属する熊谷次郎直実の無常観を主題としたものである。後に出家して法力房蓮
生と成る直実の台詞には「思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る
月より猶あやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。南楼の月をもて
あそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻
のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらん
は、口惜しかりき次第ぞ」とあり、化天を下天と変えた信長の舞がよく知られている。

 念のため、幸若舞の歴史を詳しく調べて驚いたことは、現在ただ一カ所だけ残るその伝
承地と言うのが、何と筑後川の向こう、嘗て佐賀線の最終駅があった筑後の瀬高なのであ
った。
  肥の国と筑の国との関係を探り続ける私が、偶然にも遭遇した地名、瀬高。
まことに良きかな縁(えにし)、深きかな縁(えにし)。

長岡 曉生
 

第23号 「てふの夢」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)15時08分54秒
返信・引用 編集済
  第23号 「てふの夢」 2010/5

        


ももとせの花にやどりて過しきてこの世はてふの夢にぞ有りける(大江匡房・一一五二年
頃)

 「てふの夢」の出所はもとより『荘子』。「昔(さき)に、荘周夢に胡蝶と爲(な)る。栩
栩(くく)然として胡蝶なり。自ら喩(たの)しみて志に適へるかなと。周なるを知らざるな
り。俄然として覺むれば則ち蘧(きよ)蘧(きよ)然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と
爲れるか、胡蝶の夢に周と爲れるかを」。ここから「てふの夢」は、ひいては、人生のは
かなさに譬えられる。僕は若い頃より「今ここ」の充実を心がけてきた。とくに僕を夢中
にしたものに、ドストエフスキー、ベケット、現代詩、短歌、俳句、漢詩、ジャズ、チェ
ロ、オペラ、民謡、書道、白川静、絵画、宇宙、地球、生命ほか数十を数える。しかし今
ではそれらの起こす感興は大抵は淡い。いずれも「夢」のようだ。淡々とした毎日で、生
きる意欲そのものが衰えてきていることを感ずる。いつ死んでもいい。若い頃には考えな
かったことだ。自戒を込めて言うが、富岡鉄斎に倣い享年九十まで尻上がり調子に潑剌と
した作品を。この青年の誓いはどこへ行ったか。ところで、僕の手許には寄せ書きされた
日の丸の旗がある。戦死した父のものだ。十年ほど前、戦地沖縄で取得したとして、アメ
リカのある篤志家から還ってきた。「祈武運長久 為北傳吉君」のもと、五十ほどの名が
連なる。旗には特段の汚れもある。汚水か。しかしはっと思った。違う! 血痕だ、父の!
 この日章旗は七十年前の日本帝国の夢だった。そして三十五歳で絶寿した父の人生の夢
もそこに重なっている。旗を前にして悄然と「生きる」を思う。

神野 佐嘉江
 

第16号「揺らぎ」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)14時29分48秒
返信・引用
  第16号「揺らぎ」  2008/8

          

まえがき

 私は以前、別の同人誌に「狭間シリーズ」の文章を十編ほど書いたことがあった。趣味
と道楽の狭間で、本音と建前の狭間で、晴と褻の狭間で、光と影の狭間で、都市と田舎の
狭間で、男と女の狭間で、パラノイアとスキゾフレニーの狭間で、モダンとポストモダン
の狭間で、など人生の岐路に戸惑ってたちすくむ己の心情を綴ったものだ。
 そして一方を決断したその時、捨て去ったものに微かな思いを残した。去りゆくもの、
滅び行くものに憐憫の情を覚えることは人間の証のような気がしてならない。だから拝金
主義者や権力主義者などの効率よく物事を決断し、疑いもなく自ら選んだ道を突き進む人
を私はあまり好きではないし、信用もしない。人が岐路に立って自分の行く道を決めかね
て、戸惑い揺らぎながら迷っている姿に、私は人間としての共感を抱くのである。

 「揺らぎ」とは機械的な正確無比の時の刻みではなく、一定した流れの中に生じる微か
な乱れのことをいうのである。
この宇宙の森羅万象,すべてに「揺らぎ」があるという。それが心臓の脈拍の揺らぎであ
り、うち寄せる波,風,潮の満ち引きの揺らぎであり、モーツァルトなどの名曲の中の旋
律の揺らぎであり、人との会話においても時には予期しない返答だったりするような揺ら
ぎである。揺らぎが創り出す変化は、私達が過ごす日常の殆どが褻の時間のなかで、人生
とは面白いと感じさせる何かを創り出す力があるようだ。

 この世の中に絶対的に基準となるものは有りはしない。時間や空間や思想や理論におい
ても同様で、いまこの一瞬の自覚した己の存在だけが真実であることを除いて、すべて虚
であり、想念の中の出来事である。だから、どこかの殺虫剤会社の「そんなものが効くの
か」という男の疑問に答えて、藤原紀香が「その疑い深い目が好き」と艶っぽく宣うコマ
ーシャルがある。この、権威や定説や既成の価値観に対して「揺らぎ」や「疑い」を抱く
精神が好きだ。
                             古賀 和彦
 

第22号「空を飛んでみたい」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)13時59分11秒
返信・引用
  第22号「空を飛んでみたい」  2010/2

          

前書き

 小さな頃から、空を自由に飛ぶ鳥を見て憧れていた。
雀じゃだめ。カラスでもだめ、大きな翼を広げ、自由自在に方向を変え、滑降、上昇をく
りかえす大きな鳥。
何度も飛ぶ夢をみてきた。
面倒なこと、私誰々病、死ぬことがわからない病、生きることがわからない病、から自由
になり、な~んにも考えず風に身を任せ、のびのびと空を飛びたい、そんな気持ちからだ
ったと思う。
 昔昔ダビンチは飛ぶ機械を設計した。鳥の飛ぶ仕組みを精緻な目、科学の目で観察し取
り組んだのだろうが、きっと彼も空を飛びたかったのだと思う。その視線の先は宇宙だっ
たのかもしれない。
覚醒剤でも一瞬飛べた気分になるのだろうが、私はやっぱり気持ちいい地球の空気を吸
って、風と遊びたい。今でも飛びたいと思っている。

 表紙の絵は今から遠い昔に描いたもの。ピエロシリーズは途切れることなくなぜか続い
ている。何かに紛れて失くしたもの、くしゃくしゃに丸めて捨てたもの、海外赴任中の置
き忘れもたくさんある。手元にある中で、このピエロが一番気に入っている。
判読不明かと思い、絵の横に書き付けた箇所を改めて載せることで前書きの終わりとす
る。

*******************
ダビンチの
鳥の模型を
そっくりそのまま
拝借して空を飛ぶ
- - - - 。
新宿の空を飛ぶ
ピエロはこの
翼を作るため
20年間の
出演料を
全部使い果たした。
*******************
 

第13号「楽」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)13時55分40秒
返信・引用
  第13号「楽」  2007/11

          


13は、佛教では智慧を授ける虚空蔵菩薩にご縁の、おめでたい数です。
「しか言う御主も十分おめでたい。」とは、本人も十分解っております。
と言うのも、今回の同人αと担当の長岡曉生は13に深い縁が有るのです。

今回の αの累積号数は、13号
現在の αのメンバーは、13名
私事ですが、長岡曉生の
佐賀高校の卒業年次は、 13期
1年生の時のクラスは、 13組
2年生の時のクラスは、 13組
3年生の時のクラスは、 13組
絵担当の三男の生日は、 13日(8月)です。
最後の符合は、三男が教えて呉れました。

さて、α13号の題名を決める必要があります。
今年、平成19年のαの題名の流れは、次の通りです。
10号:[美]→11号:[選択]→12号:[出会い]→13号:[未定]
13号は、この題名の流れを男女の出会いと見立てて「楽」と致します。

○楽の意味
  楽には、一字で五つの意味があり、それぞれで読みが異なります。
  楽(ガク) は、奏でる。 楽人は、楽器の演奏家
  楽(ラク) は、楽しむ。 楽観は、楽しみ遊ぶこと
  楽(らく) は、容易に。 容易を、らくにと言うのは日本だけの用法
  楽(ゴウ) は、愛でる。 楽聖は、清酒を愛でること
  楽(ギョウ)は、ねがう。 信楽は、人を信じ求めること

白川静博士によると、楽は鈴の象形文字で本来の意味は楽器を奏でる事です。
奉仕された楽奏を、神が聞いて楽しんだ事から、楽しむの意味が派生しました。
この楽しむから、日本語での[仕事をらくにする]という用法が生まれました。
因みに、仕事を楽しむという精神構造は、日本人特有のものらしいですね。

あなたは、どの楽を選びますか。

長岡曉生

………………………………………………………………………………………………
「楽」から絵を描き起こすに当たって、らくな状態で穏やかに、
というニュアンスを込めて描きました。
ラクダと猿については動物名の中で「楽」と関連するものを選びました。
 「ラクダ」は音からの連想
 「猿」は猿楽からの連想
というわけです。よろしく。

小柳景義(かげよし)
………………………………………………………………………………………………

 

第7号「生きる」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)13時33分13秒
返信・引用 編集済
  第7号「生きる」  2006/5

          

「生きる」特集 前書きに変えて

 先だって、次のような文面をそえて、会員同人諸君に厚かましくもアンケートをお願
いした。

 「オモテ面の『生きる』と題したカードは、今回編集担当の北が、恥ずかしながら(文
学は己の恥を世間にさらす、とも世に言われています)、己のそれをまとめたものです。
 北は若い時から『生は、生きてみなければわからない』との持論でした。このほど六
十歳を超え、生きてみたその自分の生を、それではとあれこれ検討し、まとめてみたわけ
です。こうやって事書きに単純化してみたり、若いときからの日記を読み返したら、カー
ドに表した『生きる』とはまた違った、生の新たな相も見えました。思わぬ副産物に、面
白いものだなと思った次第です。
 北のこのカードを一覧して、同人諸君は何を思ったでしょうか。これを或る友人に見
せたところ、一瞥後『ジコチュー』と言い放ちました。『ではそういう自分は』と問いか
けると、『学者を夢見たがあきらめ』云々と、自分の『生きる』を簡潔に述べてくれまし
た。
 担当者の特権で、わがままを言います。同人の皆さん、お願いです、北のこの『生き
る』を忌憚なく批判して下さい。カードになにくれとなく書き込んで下さい。そして御自
分の『生きる』をもしよければ教えて下さい、僕の私の『生きる』はこれだと。人の数だ
け『生きる』があること、それがまた楽しみになります。北の『生きる』を位置付けると
ともに、その楽しみも味わいたいと思って、右お願いする次第です。以下、お願いをまと
めます。
―記―
 ①北の『生きる』を検討・批判して下さい。遠慮のないご意見を下さい
 ②(できるなら)自分の『生きる』『自分はこう生きた』を簡単な箇条書きでもけっこ
うですから教えて下さい。」


アンケート
 1.(肉体面)=(生物としての)生命を保つ。
    ・バランスよく食べる。
    ・危ない所には近寄らない。
    ・ちりも積もれば山となる。

 2.(精神面)
          ………原理的には………
  ・充実して生きること。
    前提=生にはしたい事がある。
     「生命」とはしたい事が心に溢れること。(=好きな事)
     「力」とは、したい事へ向かって駆動させる力のこと。
     「自由」とはしたい事ができること。(天真爛漫、自然児)
     「生命」「力」「自由」が十全に働く事を「充実して生きる」という。
   とりもなおさず、いきいき生きること。
   自由であるために、
     憂い・悩み・心配・煩いごとなどを持たぬこと。
     人に束縛されないこと。
   ・(心の状態)快適であること。

         ………具体的には………、
   ・したいことをする(原則)。
   ・好きなことをする(志)。
     創る。
      文学する。
       生を知る、探る、味わう。
        本を読む。
     快楽を味わう。
      五感で味わう。
      なにをする。

 3.(空 間)
   ・したい事がある自分を「捨てる」ことはできない。むしろ、
   生が人間に与えてくれるものを全ていただく。
     生を味わう。
     五感をフルに活用する。
   ・人に束縛されない。

 4.(時 間) 長寿を図る。

 5.(範 囲) 生命を宇宙の中でとらえる。

 幸いにも快く迎えられ返事は皆さんから返ってきたが、その中身はというとやはりと
いうか、三者三様。北の生き方を位置付けようと試みたが、そんなものを拙い言葉で提示
するより、皆さんの応えそのままを提示したほうが断然おもしろいことに気が付いた。以
下、御覧あって皆さんも同じ思いに駆られることと思う。

神野 佐嘉江
 

第2号「想」

 投稿者:同人α総務  投稿日:2014年 6月12日(木)13時27分48秒
返信・引用 編集済
  第2号「想」  2005/2

          

はじめに

さて、第2号の名称の「想」に決めた経緯を曲がりなりにも理屈をつけて説明しなければ
なりません。私は常日頃、宇宙の果てはあるのかないのか?無から有は生まれるか?はた
して無限の世界はこの世に存在するのかしないのか?などの眠れない問題に悩まされて来
ました。しかしもうそろそろ独断と偏見をものともせずに自分のなかでそれらの難題に決
着をつけなければならないと考えました。
いま現在我々が生きている世界は有限の世界と認識していて、石や花や実数などは手に取
って確かめることができます。しかし実態のない無限の世界を「想念の世界」とみなせば、
各の頭の中には神や虚数や妄想などあらゆるものが存在することが可能であるし、宇宙の
果てと思われている130億光年のかなたまで瞬時に出かけることも出来るのです。
そして、我々は「想念の世界」の神々や多くの先人の思想から実人生に大いに影響を受け
るとともに、この世の美しい花や自然やすばらしい人の生き方に感動して、ふたたび音楽
や絵、詩や小説などの「想念の世界」へフィードバックして行きます。そしてその世界へ
積極的に働きかけることで、かつて北君が巻頭言で書いたように「これから僕たちは人生
を深く生きることなる」のことば通り、残された時間を想念の世界を通して自己表現に努
めたいと思います。そういう訳で今回は題名を想念の一字をとって「想」とした次第であ
ります。
                                 古賀和彦
 

レンタル掲示板
/1